ディズレーリの第二次選挙法改正をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「ディズレーリの第二次選挙法改正をめぐって」の解説
1866年3月、保守党政権の第三次ダービー伯爵内閣が成立した。しかし自由党急進派ジョン・ブライト議員が遊説で煽ったこともあって選挙法改正を求める民衆運動はますます激しくなっていた。過激化していく民衆運動を恐れたダービー伯爵政権は選挙法改正を決意し、庶民院院内総務ディズレーリの主導のもとに選挙法改正法案を作成し、3月18日の庶民院に提出した。 同改正案は都市選挙区について戸主選挙権制度をベースとしつつ、そこに様々な条件(地方税直接納税者に限る、2年以上の居住制限、借家人の選挙権は認められない、有産者は二重投票可能など)を加えることで実質的に選挙権を制限する内容だった。先のグラッドストン案と違い、切り下げが繰り返されるのではという議会の不安を払拭した点では優れたものであった。 しかしグラッドストンが考えるところ、この法案そのままでは有権者数は14万人しか増えないし、また恐らく委員会における審議の中で法案に付けられている条件はほとんど撤廃されてしまうと予想し、結果的に「無知蒙昧」な下層労働者にまで選挙権が広がることを懸念した。そこで彼はこの法案に付けられているような条件はいらないが、代わりに地方税納税額5ポンド以上という条件を付けるべきと主張した。 グラッドストンは第二読会においてディズレーリの改正法案を激しく批判し、自らの地方税納税額5ポンド条件の方が有権者数が増えることを力説した。だがディズレーリは「(グラッドストンは)一方では法案の資格制限の撤廃を主張しながら、一方では5ポンド地方税納税という別の資格制限を加えようとしている」と根本的な矛盾を指摘して彼をやり込めた。 法案は3月26日の第二読会を採決なしで通過した。グラッドストンはこれに対抗して4月11日に地方税納税額5ポンドを条件とする修正案を議会に提出したが、採決において自由党議員から造反者が多数出て310票対289票で否決された(自由党議員のうち40名造反、20名棄権)。グラッドストンが党内情勢を読み間違えたのは、自由党議員がグラッドストンの権威を恐れて彼の前でははっきりと自分の意見を口にしなかったためである。この敗北にグラッドストンは自由党庶民院院内総務を辞職することも考えたが、周囲に慰留されて思いとどまった。 一方ディズレーリの改正法案は、グラッドストンの予想通り、委員会の審議において、ディズレーリがジョン・ブライトら自由党急進派に譲歩を重ねて条件を次々に廃していった結果、事実上単なる戸主選挙権法案と化し、グラッドストン案よりも有権者数が大幅に増える内容となった。とりわけ直接納税の条件まで廃したことにグラッドストンは驚き、ディズレーリを「ミステリーマン」と評した。戸主といってもその中には貧相な住居を所有する貧困層も含まれるので、グラッドストンはやはり納税額の資格を設けたがっていた。しかし彼は先の修正案で敗北を喫したため、法案審議の最終局面への参加は見合わせており、彼を無視してディズレーリと自由党急進派で話が進められることとなった。改正案は6月15日に第三読会を通過し、貴族院も通過し、8月15日にヴィクトリア女王の裁可を得て法律となった。ここに第二次選挙法改正が達成された。 ディズレーリには今後も保守党が政局を主導するために何が何でも保守党政権下で選挙法改正を達成したいという政局の目論見があった。そのため選挙法改正の真の功労者はやはりグラッドストンであるとする世論が根強く、後にディズレーリがこの選挙法改正で選挙権を得た新有権者に向かって「私が貴方達に選挙権を与えた」と述べた際に新有権者たちは「サンキュー、ミスター・グラッドストン」というヤジを飛ばしたといわれる。 [先頭へ戻る]
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