第三次ダービー伯爵内閣インド担当相
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「ロバート・ガスコイン=セシル (第3代ソールズベリー侯)」の記事における「第三次ダービー伯爵内閣インド担当相」の解説
1866年6月に自由党政権のラッセル伯爵内閣が提出した選挙法改正法案は否決され、内閣は総辞職に追い込まれた。代わって保守党政権の第三次ダービー伯爵内閣が成立。クランボーン子爵はこの内閣にインド担当大臣として初入閣を果たした。 選挙法挫折に対する国民の怒りは激しく、各地で抗議のデモや暴動が発生した。首相ダービー伯爵や大蔵大臣・庶民院内総務ベンジャミン・ディズレーリはこれを沈静化すべく、第二次選挙法改正へ向けて動き出した。しかしクランボーン子爵は選挙権拡大に反対し、植民相カーナーヴォン伯爵や陸相ジョナサン・ピール(英語版)将軍と連携してこれを阻止しようと図った。 1867年2月6日に閣議にかけられたディズレーリ作成の改正案は都市選挙区の選挙権について男子戸主選挙権をベースとしながらも、条件や特例(直接納税者に限定したり、有産者の複数投票権を認めるなど)を設けることで選挙権拡大を抑える内容だった。選挙権拡大を求める国民世論と選挙権拡大に反対するクランボーン子爵ら保守派を同時に懐柔することを企図したものだったが、クランボーン子爵は「この改正は自由党の強い大都市に有利な選挙法改正になる」と結論し、2月24日にもカーナーヴォン伯爵とともに辞表に等しい抗議文書をダービー伯爵に提出した。最終的に3月2日の閣議で選挙法改正法案を議会に提出することが決定されたため、クランボーン子爵、カーナーヴォン伯爵、ピール将軍の三名は辞職した。 [先頭へ戻る]
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