第三次パーニーパットの戦いとブクサールの戦い
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「アワド太守」の記事における「第三次パーニーパットの戦いとブクサールの戦い」の解説
1754年10月5日、サフダル・ジャングは死亡し、息子のシュジャー・ウッダウラが太守位を継承した。 1761年1月、第三次パーニーパットの戦いにおいて、マラーター同盟軍とドゥッラーニー朝アフガン軍が対決した時、シュジャー・ウッダウラはアフガン王アフマド・シャー・ドゥッラーニーに味方して物資や食糧を提供した。シュジャー・ウッダウラはアフガン軍に味方した理由したとしては、父が結んだ協定をマラーターが破り、アワドの広大な領土を奪い、財政的にも圧迫していたからだった。 同年、シュジャー・ウッダウラはイギリスに敗れ、アワドに逃げてきたムガル帝国の皇帝シャー・アーラム2世を保護し、1762年2月15日に彼はシャー・アーラム2世により帝国の宰相に任じられた。また、1763年末にイギリス東インド会社と対立しベンガルを追われアワドに逃げてきた、前ベンガル太守のミール・カーシムも保護し、もとの状態に戻れるよう援助を約束した。こうして、ムガル皇帝シャー・アーラム2世、アワド太守シュジャー・ウッダウラ、前ベンガル太守ミール・カーシムの間に三者同盟が結成された。 三者はまずミール・カーシムの為にベンガルを取り戻すことを決定し、1764年10月23日三者連合軍40000はビハールとアワドの境にあるブクサールで、イギリス東インド会社の軍7000と会戦した(ブクサールの戦い)。しかし、この戦いは実際のところアワド太守の軍とイギリス東インド会社軍との戦いであり、戦いは1日で終結し、結果はイギリスの圧勝であった。 その後、イギリスはアワド太守シュジャー・ウッダウラにミール・カーシムを捕えさせ投獄し、翌1765年8月16日にイギリスは戦後処理としてアラーハーバード条約を締結した。アワド太守シュジャー・ウッダウラはこの条約において、アラーハーバードとコラーの年額280万ルピーの価値のある土地を会社に割譲し、イギリスはこれらの領土を皇帝シャー・アーラム2世に与えた。また、イギリスはアワドに賠償金500万ルピーを課し、これと同時にアワドの崩壊が始まった。
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