第三次パーニーパトの戦いと大敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/13 19:49 UTC 版)
「バーラージー・バージー・ラーオ」の記事における「第三次パーニーパトの戦いと大敗北」の解説
だが、1759年10月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがラホールからマラーター勢力を追い出し、1760年1月にデリー近郊でダッタージー・ラーオ・シンディアを破って、そのままデリーに入城した。 これに対し、バーラージー・バージー・ラーオは長子ヴィシュヴァース・ラーオと従兄弟サダーシヴ・ラーオ・バーウをデリーに送った。この軍勢にシンディア家の当主ジャンコージー・ラーオ・シンディアとホールカル家の当主マルハール・ラーオ・ホールカルなどの軍勢も加わり、マラーター同盟軍は大軍となった。 しかし、マラーター同盟はマラーター勢力のみでアフガン勢力と対決しなければならなかった。彼や父バージー・ラーオの広域にわたる征服活動は各地の勢力の不満を買い、インドにおけるほとんどの勢力を敵に回していた。マラーターの覇権を握ろうとしていた野心的な行動により、北インドおいてはすっかり孤立していた。 そして、1761年1月14日にマラーター同盟軍はアフガン軍とパーニーパトの地で戦い、大敗して数万人の犠牲者を出し、ヴィシュヴァース・ラーオやサダーシヴ・ラーオ・バーウら指揮官も大勢死亡した(第三次パーニーパトの戦い)。戦闘のさなか、バーラージー・バージー・ラーオは軍を率いて北上中だったが、アフガン軍と和議と結び、3月にプネーに帰還した。
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