ダッタージー・ラーオ・シンディアとは? わかりやすく解説

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ダッタージー・ラーオ・シンディア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 06:45 UTC 版)

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ダッタージー・ラーオ・シンディア(Dattaji Rao Scindia, 1723年 - 1760年1月10日)は、インドマラーター同盟シンディア家の一員。

生涯

1723年シンディア家の当主ラーノージー・ラーオ・シンディアの次男として生まれた[1]

1755年7月25日、兄で当主であったジャヤッパージー・ラーオ・シンディアが死亡し、その幼い息子ジャンコージー・ラーオ・シンディアが当主となると、その摂政となった。

1758年には、ラグナート・ラーオとともにアフガン勢力ドゥッラーニー朝を駆逐し、パンジャーブ一帯を占領した。

1760年1月10日、ダッタージー・ラーオはデリー近郊でアフマド・シャー・ドゥッラーニー率いるアフガン軍との戦闘に敗れ、捕えられて殺害された(バラリ・ガートの戦い)[2]

出典・脚注

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