ドゥッラーニー朝との抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 06:36 UTC 版)
「マラーター王国」の記事における「ドゥッラーニー朝との抗争」の解説
だが、北進するマラーター同盟は南下するアフガニスタンのドゥッラーニー朝と衝突した。アフガン勢力は南方からムガル帝国の領土へ頻繁に侵入し、1757年1月にアフマド・シャー・ドゥッラーニーがデリーを一時占領するなど、北進するマラーターと南下するアフガン勢力の衝突は避けがたいものとなった。 バーラージー・バージー・ラーオはこの報を聞くと、すぐに弟のラグナート・ラーオをデリーに送った。だが、同年8月11日に彼がデリーの戦いでアフガン勢力を破ったときには、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはすでに退却していた。 1758年3月、ラグナート・ラーオはパンジャーブのラホールへと兵を進め、1758年5月、ペシャーワルの戦いで、ドゥッラーニー朝勢力を破り、パンジャーブ一帯を占領したのち、ラグナート・ラーオはラホールからプネーへと帰還した。マラーター王国の版図はさらなる拡大を見せた。 だが、1759年10月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーがラホールからマラーター勢力を追い出し、1760年1月にデリー近郊でダッタージー・ラーオ・シンディアを破って、そのままデリーに入城した。これに対し、バーラージー・バージー・ラーオは長子ヴィシュヴァース・ラーオと従兄弟サダーシヴ・ラーオ・バーウを指揮官とする軍勢をデリーに送り、ホールカル家やシンディア家の軍勢も加わって大軍となった。 1761年1月14日にマラーター軍はアフガン軍とパーニーパトの地で戦い、大敗して数万人の犠牲者を出し、ヴィシュヴァース・ラーオやサダーシヴ・ラーオ・バーウら指揮官も大勢死亡した(第三次パーニーパトの戦い)。
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