ドゥッラーニー朝とは? わかりやすく解説

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ドゥッラーニー朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/05/02 15:50 UTC 版)

ドゥッラーニー朝د درانیانو واکمني)は、18世紀アフガニスタンにあった成立した王朝1747年アフマド・シャーイランアフシャール朝から自立して興した。ただし「ドゥッラーニー朝」の呼称が指し示す範囲についてはいくつかの定義がある。

アフマド・シャーはパシュトゥーン人のドゥッラーニー部族連合サドーザイ部族の出身であった。狭義のドゥッラーニー朝(1747年 - 1826年)は、アフマド・シャーとその子孫の王朝(サドーザイ朝)・国家(ドゥッラーニー帝国)を指す。

ドゥッラーニー部族連合による王朝という意味では、サドーザイ朝(1747年 - 1826年)と、続くバーラクザイ朝1826年 - 1973年)をあわせてドゥッラーニー朝という。

名称

「ドゥッラーニー」はパシュトゥーン語で「真珠の時代」を意味する。

1747年から1973年までの王朝について「ドゥッラーニー朝+バーラクザーイー朝」、「ドゥッラーニー朝(サドーザイ朝)+ドゥッラーニー朝(バーラクザイ朝)」、「サドーザイ朝+バーラクザイ朝」という3つの名称が鼎立している状況である。

王朝名 できごと 国名(国号)
ドゥッラーニー朝
(広義)
ドゥッラーニー朝(狭義)=サドーザイ朝 1747年 ドゥッラーニー部族連合サドーザイ部族のアフマド・シャーがアフガンのシャーに推戴される。 ドゥッラーニー帝国
(アフガン帝国)
バーラクザイ朝
(広義)
バーラクザイ朝(狭義)
=ムハンマドザイ朝
1826年 ドゥッラーニー部族連合バーラクザイ部族のドースト・ムハンマド・ハーンがカーブルでハーンを称する。 アフガニスタン首長国
 (Emirate of Afghanistan
1835年 ドースト・ムハンマド・ハーンが君主号をハーンからアミールに変更。
1926年 アマーヌッラー・ハーンが君主号をアミールからシャー(王)に変更。 アフガニスタン王国
ムサーヒバーン朝 1929年 王家の分枝ムサーヒバーン家のムハンマド・ナーディル・シャーがシャー(王)となる。
1973年 王政が終了する

歴史

ドゥッラーニー朝の版図(紫)

サドーザイ朝

1747年イラン系遊牧民パシュトゥーン人ドゥッラーニー部族連合の一派ポーパルザイ部族(Popalzai)のサドーザイ部族アフシャール朝から独立して建国。

ジュンガル部を完全に制圧すると中国と国境を接するようになり、清の皇帝から朝貢を要求される。以後清の朝貢国となる。またこの時代はインド征服も盛んに行い、弱体化したムガル帝国にも何度も侵攻し、一時期デリーを領有した。

外交面では好戦的な一面も見せたが、周辺の遊牧国家とは親善を図った。

バーラクザイ朝

1826年に王家が分裂し、分家が本家を滅ぼす形で王朝が交代し、バーラクザイ朝が創始される。

歴代のシャー

サドーザイ朝

1819年以降は、事実上カーブルのみの支配者。

バーラクザイ朝君主についてはバーラクザイ朝を参照。

系図

 
 
 
 
 
アフマド・シャー1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ティムール・シャー2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ザマーン・シャー3
 
マフムード・シャー4,6
 
シュジャー・シャー5,9
 
アリー・シャー7
 
アイユーブ・シャー8
 

参考文献

  • 杉山正明 『モンゴルが世界史を覆す』 日本経済新聞社〈日経ビジネス文庫〉、2006年3月、ISBN 4-532-19325-7杉山正明は、「最後の遊牧王国」と称している。

ドゥッラーニー朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:03 UTC 版)

アフガニスタンの歴史」の記事における「ドゥッラーニー朝」の解説

詳細は「ドゥッラーニー朝」および「ドゥッラーニー帝国」を参照 1747年イラン系遊牧民パシュトゥーン人アフシャール朝から独立して建国。清がジュンガル部を完全に制圧する中国国境接するようになり、清の皇帝から朝貢要求される以後清の朝貢国となる。またこの時代インド征服盛んに行い弱体化したムガル帝国にも何度も侵攻し一時期デリー領有した。 アブダリー族のアフマド・ハーンは、アブダリー族の9つ亜属集まったジルカによってシャーにえらばれた。その後、彼はドゥル・イ・ダウラーン(真珠時代)という肩書き得たことを契機に、アブダーリー族はドゥッラーニーと名乗るようになり、アフマド・ハーンは、アフマド・シャー・ドゥッラーニーとなった1748年ガズニーカーブル攻撃し続いてペシャワール襲った次ぎに、デリーへ兵を進め領土を拡げた。1750年ヘラート進撃する。さらにアフガニスタン中央部バーミヤンをおさえる。 1809年シュジャー・シャー大英帝国同盟したナポレオンフランスロシア帝国共同してインド侵攻した場合対抗する意味合いがあった。(第I期グレート・ゲーム外交面では好戦的な一面見せたが、周辺遊牧国家とは親善図った1842年王家分裂し分家本家を滅ぼす形で王朝交代しバーラクザイ朝創始される。

※この「ドゥッラーニー朝」の解説は、「アフガニスタンの歴史」の解説の一部です。
「ドゥッラーニー朝」を含む「アフガニスタンの歴史」の記事については、「アフガニスタンの歴史」の概要を参照ください。

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