ドゥッラーニー朝
ドゥッラーニー朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 23:03 UTC 版)
「アフガニスタンの歴史」の記事における「ドゥッラーニー朝」の解説
詳細は「ドゥッラーニー朝」および「ドゥッラーニー帝国」を参照 1747年にイラン系遊牧民パシュトゥーン人がアフシャール朝から独立して建国。清がジュンガル部を完全に制圧すると中国と国境を接するようになり、清の皇帝から朝貢を要求される。以後清の朝貢国となる。またこの時代はインド征服も盛んに行い、弱体化したムガル帝国にも何度も侵攻し、一時期デリーを領有した。 アブダリー族のアフマド・ハーンは、アブダリー族の9つの亜属が集まったジルカによってシャーにえらばれた。その後、彼はドゥル・イ・ダウラーン(真珠の時代)という肩書きを得たことを契機に、アブダーリー族はドゥッラーニーと名乗るようになり、アフマド・ハーンは、アフマド・シャー・ドゥッラーニーとなった。1748年にガズニーとカーブルを攻撃し、続いてペシャワールを襲った。次ぎに、デリーへ兵を進め領土を拡げた。1750年ヘラートに進撃する。さらにアフガニスタン中央部のバーミヤンをおさえる。 1809年、シュジャー・シャーは大英帝国と同盟した。ナポレオンのフランスとロシア帝国が共同してインド侵攻した場合、対抗する意味合いがあった。(第I期グレート・ゲーム) 外交面では好戦的な一面も見せたが、周辺の遊牧国家とは親善を図った。 1842年に王家が分裂し、分家が本家を滅ぼす形で王朝が交代し、バーラクザイ朝が創始される。
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