バーミヤン【Bāmiyān】
バーミヤン
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バーミヤン
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アフガニスタン北東部、ヒンドゥークシュ山脈中の渓谷地帯であるバーミヤンには多数の仏教石窟が造られ、なかでも「東大仏」「西大仏」と呼ばれる2体の巨像が著名であったが、2001年にイスラム原理主義勢力のタリバンによって破壊されてしまった。両大仏のみならず、石窟内の壁画や、周辺の関連文化財もその多くが失われた。 バーミヤンはカーブルの西約230キロメートル、標高約2,500メートルに位置する、東西に長い盆地である。西から東へバーミヤン川が流れ、その北をカーブルとヘラートを結ぶ街道が通る。石窟群はこの街道の北にそびえる、礫岩の絶壁を穿って形成されている。石窟群は東西約1,300メートルにわたって約750窟があり、その東西端近くに東大仏と西大仏があった。このほか、盆地の東方にはカクラク川、西方にはフォラディ川がそれぞれ南から北に流れてバーミヤン川に合流しているが、これらの川沿いにも多数の石窟がある(カクラク川沿いに約100窟、フォラディ川沿いに約50窟)。バーミヤンの石窟群の造営時期については記録がないため確かなことはわからないが、おおむね5世紀頃に造営が開始され、7 - 8世紀に造営がもっとも盛んになったと考えられている。西暦400年頃に西域を経てインドへ旅した法顕の『仏国記』にはバーミヤンを訪れた記録はない。一方、629年に当地を訪れた玄奘は『大唐西域記』にバーミヤンについての詳細な記録を残しており、東西の大仏についても言及している。722年には新羅の僧慧超がバーミヤンを訪れており、少なくともこの頃までは当地で仏教が信仰されていたことがわかる。 かつて存在した東大仏は高さ38メートル、西大仏は高さ55メートルであった。両大仏は礫岩の断崖を光背形に彫り窪めた中に立ち、表面は土と漆喰で造形されていた。衣文は、像表面に多数の杭を打ち、杭と杭の間に縄を張りめぐらした上を漆喰で塗り固めたものであった。両大仏の顔面はタリバンによる破壊以前から失われていた。7世紀にバーミヤンを訪れた玄奘は、『大唐西域記』に、伽藍の西には「高さ百四、五十尺の金色の立仏の石像」、伽藍の東には「高さ百余尺の鍮石の釈迦立像」があったと記しており、それぞれ西大仏、東大仏を指すとみられる。鍮石とは真鍮の別称である。この記述については、玄奘が石造の東大仏を金属製と誤認したとする解釈もあるが、そのような誤認はありえないとする意見もあり、真相は不明である。約50の石窟には壁画が描かれていたが、それらの正確な制作年代は不明である。東西大仏の石窟の天井から側壁にかけても壁画があった。西大仏窟の壁画は剥落が激しいが、多数の菩薩像や楽人、飛天などの像を並べたものであった。一方、東大仏窟の壁画は天井中央部に四頭立ての馬車に乗る太陽神スールヤを表し、周囲に仏や供養者を表すものであった。 バーミヤン東大仏(破壊前) バーミヤン西大仏(破壊前) バーミヤン大仏(破壊後) バーミヤン渓谷 164窟ドーム天井
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