大仏
作者ヨシイドク,ヨシイミツ
収載図書ねむりばこ
出版社新風舎
刊行年月2004.7
大仏
姓 | 読み方 |
---|---|
大仏 | おおさらぎ |
大仏 | おおらぎ |
大仏 | おさらぎ |
大仏 | だいぶつ |
大佛 | おおふつ |
大佛 | おさらぎ |
大仏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/09 10:11 UTC 版)
- ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95
- ^ 「1丈6尺=約4.85メートル」とされるが、時代によって異なる。
- ^ やさしい仏教入門 大仏・丈六仏 飛不動尊 龍光山正宝院
- ^ 台座等は含まない。涅槃像は全長とする。
- ^ 観光スポット 高岡大仏 とやま観光ナビ
- ^ 高岡大仏 高岡市 2013年3月21日
- ^ ぎふ大仏フェスティバル実行委員会 岐阜市公式ホームページ 2012年11月14日
- ^ 岐阜大仏(正法寺)岐阜観光コンベンション協会
- ^ 「国宝の大仏殿に安置される奈良大仏と500年以上も風雨にさらされてきた鎌倉大仏」nippon.com(2018年12月11日)
- ^ 「日本三大仏」常識ではない?北日本新聞ウェブ(2017年12月13日)
- ^ 「ブラジルに35メートルの大仏 リオのキリスト像を上回る」『毎日新聞』朝刊2021年9月24日(国際面)2021年9月27日閲覧
大仏
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大仏(おおらぎ)
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「ダイヤモンド (青山広美の漫画)」の記事における「大仏(おおらぎ)」の解説
代打要員。左打ち。ベテランで、変化球にはめっぽう強い。大仏のような顔をしている。
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大仏(だいぶつ)
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本名は大仏竜之介(おさらぎ りゅうのすけ)。5分刈りの頭に巨漢と、名前から想像される二枚目とはかけ離れた風貌を持つ。1歳のころに実の母親が死亡(実父も中学生の頃に死亡したと本人が同僚の梅村に語っている)、その後父親は再婚しているが、再婚相手は大仏を取り上げた助産師である。非常に母親思いであり、この育ての母親を今でも大事にして慕っている。
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大仏
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詳細は「東大寺盧舎那仏像」を参照 国宝。奈良〜江戸時代。像高14.73メートル。国宝指定名称は「銅造盧舎那仏坐像」。一般に「奈良の大仏」として知られる東大寺の本尊像で、鋳銅製である。奈良時代に聖武天皇の発願で造立され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われた。ただし、現存する大仏は、脚部や台座蓮弁などの一部に奈良時代のオリジナルが残ってはいるが、頭部は江戸時代の、体部の大部分は鎌倉・室町時代の補鋳である。本像は、『華厳経』に説く、盧舎那仏(るしゃなぶつ)という名の仏である。盧舎那仏は「毘盧遮那仏」(びるしゃなぶつ)とも表記し、サンスクリットの「ヴァイローチャナ」(「あまねく照らす」の意)の音訳である。『華厳経』に説く「蓮華蔵世界」という広大無辺の世界の教主であり、宇宙の真理そのものを表す仏とされている。 『続日本紀』によれば、聖武は天平12年(740年)2月、河内国大県郡(現・大阪府柏原市)の知識寺で盧舎那仏の像を拝した。このことが機縁となり、聖武は自らも盧舎那仏像を造立することを発願した。聖武と光明皇后の皇子である基王(もといおう)は神亀5年(728年)、生後1年足らずで夭折した。その後も天皇周辺では長屋王の変(神亀6年・729年)、疫病による藤原四兄弟の相次ぐ死(天平9年・737年)、藤原広嗣の乱(天平12年・740年)など、不穏な出来事が相次いだ。こうした時代背景で聖武は仏教に深く帰依し、仏教による国家鎮護のため、天平13年(741年)2月14日に「国分寺建立の詔」、天平15年(743年)10月15日に「盧舎那仏造立の詔」を相次いで発した。行基を勧進(責任者)に任じて大仏造立の工事が始まったが、当初、大仏は奈良の東大寺ではなく、当時天皇の離宮があった近江国紫香楽(現・滋賀県甲賀市)の甲賀寺に造られる予定であった。甲賀寺に造られつつあった大仏は、天平16年(744年)には骨柱(銅像を鋳造するための原型の骨組み)ができあがっていた。聖武は在位中にたびたび遷都を行い、平城京から山背国の恭仁京に移った都は、難波京を経て、天平17年(745年)5月、ふたたび平城京へ戻った。平城還都とともに大仏の造立も平城京で行われることとなり、同年8月から大和国添上郡山金里(現・東大寺の所在地)であらためて大仏造立が始められた。翌天平18年(746年)頃には大仏の土製の原型が完成し、天平勝宝元年(749年)には鋳造作業が一通り終わり、仕上げの作業に入っている。大仏開眼供養が行われたのは天平勝宝4年(752年)4月9日のことである。この開眼供養の盛大豪華であったことは『続日本紀』に記録されており、同書は「仏教が日本に伝来して以来、このような盛大な儀式はなかった」(原文:仏法東帰、斎会之儀、未嘗有如此之盛)と述べている。この時点では大仏の鍍金(金メッキ)は完成しておらず、光背もまだ作られていなかったが、この天平勝宝4年(752年)が日本への仏教伝来の年(『日本書紀』によれば欽明天皇13年・西暦552年)から数えて200年目の節目の年であるということで、取り急ぎこの年に開眼供養を行ったとする説(吉村怜の説)が広く受け入れられている。 大仏は治承4年(1180年)の平重衡の兵火(南都焼討)で甚大な被害を受けた。その後、東大寺再建勧進職に任じられた俊乗房重源の尽力によって復興勧進が行われ、大仏の鋳造は宋人・陳和卿の助力を得て完成し、文治元年(1185年)に開眼供養が行われた。建久6年(1195年)には再建大仏殿が落慶し、建仁3年(1203年)、後鳥羽上皇の行幸を得て、いわゆる「東大寺総供養」が行われた。こうして鎌倉時代に復興された大仏と大仏殿は、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵火(東大寺大仏殿の戦い)でふたたび焼けてしまった。その後、大仏と大仏殿は仮復旧されたが、仮の大仏殿は大風で倒壊してしまい、大仏は長らく露座(雨ざらし)の状態であった。露座の大仏を見かねた龍松院公慶は貞享元年(1684年)、大仏復興勧進を開始。仮復旧の状態であった仏頭の補鋳などを行って、元禄5年(1692年)に大仏の開眼供養が行われた。大仏殿の落慶は公慶の没後の宝永6年(1709年)のことであった。これが現存する大仏と大仏殿である。現存する大仏は、頭部は江戸時代、体部の大半は鎌倉時代と室町時代に造られたもので、奈良時代当初の部分は、脚部や台座の蓮弁などの一部に残るのみである。2度の兵火を経て残る台座の蓮弁には、線刻で仏・菩薩の像が表されており、奈良時代の絵画資料として貴重である。 大仏台座蓮弁の線刻画(菩薩)(焼失をまぬがれた奈良時代の部分) 大仏台座蓮弁の線刻画(釈迦如来)(焼失をまぬがれた奈良時代の部分)
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大仏
「大仏」の例文・使い方・用例・文例
- 奈良には有名な大仏があります。
- 奈良は大仏で有名です。
- 大仏
- 奈良の大仏
- 大仏の水遊び
- 大仏師という地位
- 大仏師という地位にある人
- 大仏開眼供養という法会
- 大仏を供養すること
- 大仏を安置してある建物
- 大仏餅という食べ物
- 大仏様という,鎌倉時代の建築様式
- 今年は,東大寺の大仏開眼1250周年記念の年である。
- 東(とう)大(だい)寺(じ)では,上野道(どう)善(ぜん)住職に案内されて大仏像を見学した。
- 大統領は子ども時代に鎌倉を訪れたことについて話し,大仏像を見たけれど抹茶アイスクリームの方に興味があったと話した。
- 2本の刀は1907年に東大寺の大仏殿が修理されたときに発見された。
- 刀は大仏の台座の南西角の下に埋められていた。
- オバマ大統領が鎌倉大仏を再訪
- 米国のバラク・オバマ大統領が11月14日の午後,横浜市でのアジア太平洋経済協力(APEC)首脳会議の後で,鎌倉の大仏を訪れた。
- 鎌倉大仏は大統領にとって特別な意味を持っている。
大仏と同じ種類の言葉
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