ムガル帝国の宰相として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/02/08 21:17 UTC 版)
「サフダル・ジャング」の記事における「ムガル帝国の宰相として」の解説
1748年、ムガル帝国は南下するアフガニスタンのドゥッラーニー朝に領土を侵略され、デリーを脅かされた。サフダル・ジャングは皇帝ムハンマド・シャーの要請で、アワド軍をムガル帝国軍の援軍とし、3月に帝国の領土からドゥッラーニー朝アフガン軍を退けた(マヌープルの戦い)。 また、同年4月のムハンマド・シャーの死後、後を継いだ皇帝アフマド・シャーによって、サフダル・ジャングはムガル帝国の宰相に任じられた。また、アラーハーバードも直轄地として与えられた。 これにより、サフダル・ジャングはアワドの世襲をムガル帝国に認めさせ、アワド地方の支配とその正当性を確立した。彼はデリー(現ニューデリー)の領地に邸宅を構え、そこからムガル帝国の宮廷に出仕した。 サフダル・ジャングは宰相就任後、アフガン勢力ドゥッラーニー朝の勢力に対抗すべく、マラーター王国の宰相バーラージー・バージー・ラーオと協定を結んだ。これによれば、マラーターはアフマド・シャー・ドゥッラーニーとの戦いでムガル帝国に援助し、そのほかアフガン勢力やラージプートといったインド内で敵対する勢力から守る代わり、バーラージー・バージー・ラーオには500万ルピーを支払い、パンジャーブとシンド、北インドの数県からのチャウト徴収権、アーグラとアジメールの太守職が与えるというものであった。
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