ムガル帝国の実権掌握
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「マハーダージー・シンディア」の記事における「ムガル帝国の実権掌握」の解説
マハーダージーがデリーを離れている間、ミールザー・ナジャフ・ハーンがムガル帝国の再建に尽力したが、同年4月28日に彼が死ぬと、その副官4人によるその地位を引き継ごうとして争った。 マハーダージーも第一次マラーター戦争が終結したことによりこの争いに介入し、ミールザー・ナジャフ・ハーンの副官4人の争いを制圧し、ムガル帝国の情勢を安定化させた。 そして、マハーダージーは皇帝シャー・アーラム2世にその功績を認められ、1784年12月4日にムガル帝国の摂政(ヴァキーレ・ムトラク)と軍総司令官(アミールル・ウマラー)に命じられることとなり、その権威は北インド一帯に轟くこととなった。だが、彼がヒンドゥー教徒であるにもかかわらず、帝国の摂政と軍総司令官になったことは、宮廷のイスラーム教徒の怒りと不満を買い、またマラーター同盟とイギリスとの対立も不可避なものとし。 この頃になると、マハーダージーはラージプート諸王国へと侵攻し、中央インドのボーパールなど諸国からは貢納させていた。また、領土を接するホールカル家とも紛争を繰り返し、その当主アヒリヤー・バーイー・ホールカルとの険悪だった。
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ムガル帝国の実権掌握
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「ナジーブ・ハーン」の記事における「ムガル帝国の実権掌握」の解説
さて、ムガル帝国の皇帝アーラムギール2世の治世、ナジーブ・ハーン率いるローヒラー族はデリーの東方および北方に勢力を広げ、彼は帝国からサハーランプルの知事に任命されていた。 1756年、ムガル帝国の宰相ガーズィー・ウッディーン・ハーンはこの状況を改善しようと、ローヒラー族の支配していたラホールを奪還した。このとき、ナジーブ・ハーンはアフマド・シャー・ドゥッラーニーと連絡を取り合い、同年12月にアフマド・シャーはデリーへ向けて進軍した。 1757年1月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはデリーを占拠し、2月には略奪と殺戮を行った。帝国になすすべはなく、同様の行為はマトゥラーやヴリンダーヴァンでも行われた。 一方、ナジーブ・ハーンはローヒラー族の兵を率いて、デヘラードゥーン一帯を侵略し、およそ10年にわたりこの地域はローヒラー族の支配下にあった。 4月、アフマド・シャー・ドゥッラーニーはデリーから略奪品とともに撤退し、ガーズィー・ウッディーン・ハーンは復職したが、監督官としてナジーブ・ハーンが置かれた。こうして、ナジーブ・ハーンは帝国の実権を握ったのである。
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