ムガル帝国の滅亡とイギリスの直接統治
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「バハードゥル・シャー2世」の記事における「ムガル帝国の滅亡とイギリスの直接統治」の解説
1857年9月にバハードゥル・シャー2世は捕らえられたのち、デリー城で裁判を受け、1858年3月29日にイギリス国王に対する反逆罪を宣告されて廃位された。同年5月、彼は一族とともにビルマのラングーン(現ミャンマーのヤンゴン)に追放された。 同年8月2日、イギリス議会は「インド統治改善法(1858年インド統治法)」を可決し、イギリス東インド会社に大反乱の全責任を負わせ、その全ての権限をイギリス国王に委譲することにした。そして、同年11月1日イギリスはインドの直接統治を宣言し、ここに17代332年続いたムガル帝国は滅亡した。 こうして、バーブルがパーニーパットの戦いでローディー朝を倒してムガル帝国を創始してから332年、またティムールが中央アジアで大帝国を築いてから488年が経っていたこの年、かくしてムガル帝国は滅亡した。 なお、白髭をたくわえ、流謫地へ送られる83歳のバハードゥル・シャー2世の姿が白黒写真にて残されている。廃帝は流謫地ラングーンで一族と余生を過ごし、それから4年後の1862年11月7日にで死去した。老帝が追放先で詠んだ詩は悲哀が漂う、凄絶としたものであった。 「 「私はだれの光でもない だれの心の芳香でもない わたしはだれの役にも立たない ただひと握りの土、そんなものだ」 」 バハードゥル・シャー死後、1877年1月1日イギリス国王が「インド皇帝」として即位し、インド総督が副王を兼任する「インド帝国」が成立し、イギリスは名実ともにインドの支配者となった。このような経緯から、インド国民という概念を誕生させたのは、皮肉にもイギリスの統治であったと解する説もみられる。
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