ムガル帝国最後の英雄
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 13:37 UTC 版)
「シャー・アーラム2世」の記事における「ムガル帝国最後の英雄」の解説
デリーの実権は今やマハーダージー・シンディアの手中にあり、彼はローヒルカンドへと進撃し、アワド太守シュジャー・ウッダウラを圧迫した。だが、同年8月にマラーター王国の宰相ナーラーヤン・ラーオが死に同盟に緊張が走ったことで、北インドからデカン地方へと移動してしまった。 さて、シャー・アーラム2世がデリーへ帰還したのち、「ムガル帝国最後の英雄」と呼ばれた軍総司令官ミールザー・ナジャフ・ハーンという人物が台頭した。この人物はかつてイランを支配したサファヴィー朝の末裔でもあった。 有能な政治家であり軍人だったミールザー・ナジャフ・ハーンはデリーにおける皇帝の権威を確立し、最新の軍事技術に遅れ劣らないようにするため、外国の技術者や士官を雇い、弱体化していたムガル帝国の再建につとめた。彼は銃や火砲など武器の近代化を図り、歩兵、騎兵など85,000人から90,000人からなるムガル帝国軍を再建に成功し、帝国軍を強化した。 こうして、1772年からミールザー・ナジャフ・ハーンが死ぬまでの10年間を通して、パンジャーブのシク教徒から領土を奪い、アーグラ付近に勢力を張っていたジャート族のバラトプル王国を破り、アフガン系ローヒラー族に対しても攻撃する断固とした態度をとった。なお、1779年のシク教徒とローヒラー族連合軍との戦いでは、ミールザー・ナジャフ・ハーンは敵兵5,000を殺害するなど決定的な勝利をおさめている。 そして、1782年4月26日、ミールザー・ナジャフ・ハーンが死ぬまでに、ムガル帝国の権威はパンジャーブのサトレジ川からアーグラの南の密林に至る地域、ガンジス川からラージャスターンのジャイプル王国に至るまでのまで回復を果たしていた。 帝国の周辺諸国はその権威を認め、遠く離れた国境を接さない南インドの君主、マイソール王国の支配者ハイダル・アリー及びカルナータカ太守ムハンマド・アリー・ハーンも使者を宮廷に送り、皇帝シャー・アーラム2世とたびたび書簡を交換していた。
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