ムガル帝国期とは? わかりやすく解説

ムガル帝国期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 06:57 UTC 版)

デリー」の記事における「ムガル帝国期」の解説

1526年ムガル帝国創設したバーブルデリー南方にあるアーグラ首都さだめたが、その息子フマーユーンデリー新しく都市建設し首都とした。1540年フマーユーン追って一時スール朝開いたシェール・シャーデリー首都を置き、シェール・シャー息子倒してふたたびデリー奪回したフマーユーンもまたデリーを都とし、プラーナー・キラーに本拠置いた。しかし、フマーユーン息子アクバルは、再び首都アーグラへと移しデリー荒廃一途たどった1648年デリー再度ムガル帝国首都となるとアクバルの孫シャー・ジャハーンによって再建され現在のデリー基礎がきずかれた。現在オールド・デリー呼ばれているデリー旧市街は、シャー・ジャハーン築いたものであり、建設当時は「シャージャハーナーバード」(シャー・ジャハーンの町)と呼ばれていた。これ以後ムガル首都アーグラデリーの間を行き来するが、1707年6代皇帝アウラングゼーブの死後ムガル帝国首都デリー固定された。これはムガル帝国勢力急速に縮小しデリー近郊以外の支配維持できなくなったことによる衰退したムガル帝国デリーを守る力はなくなっており、以後デリー幾度となく戦禍見舞われることとなった1737年にはマラーター王国攻撃され1739年にはペルシャナーディル・シャー有名な孔雀の玉座などの財宝略奪し破壊されてしまった。1771年マラーター王国諸侯シンディア家勢力下に入り1803年には第二次マラーター戦争結果イギリス支配権獲得する1857年インド大反乱によって一時的に占拠され名目的な存在ではあるがこの町にて在位していた皇帝バハードゥル・シャー2世反乱側に加担したが、同年奪回された。バハードゥル・シャー2世デリーからミャンマー配流されることでムガル帝国は完全に滅亡し、その首都として歴史終えている。

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ムガル帝国期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/08 06:30 UTC 版)

ザミーンダール」の記事における「ムガル帝国期」の解説

ムガル帝国建国バーブルヒンドゥスターン征服した時、各地にはラーイラージャラーオ、ラワットなどと呼ばれる独立半独立領主多数存在していた。ペルシア語年代記では、これらをザミーンダールあるいはマルズバーン呼んでいる。こうした領主たちは、ほとんどが世襲で、それぞれの領地統治していて、帝国経済的軍事的基盤となったバーブル自身書いているところによれば、ヒンドゥスターン征服時、ザミーンダール領地からの税収国家歳入6分の1を占めていた。「それらの、ビラからビハールまでの国々から今や1528年我が元に入る歳入は、後で詳しく述べるが42カロール(4億2000)に上るそのうち8、9カロールラーイラージャのパルガナー(英語版)から来るもので、彼らは過去に(デリー・スルターン朝に)従い安堵受けた者たちである。」 アクバル時代歴史家アリフ・カンダハーリーによればムガル帝国支配下には城砦拠点領地治めラージャラーイザミーンダール200300人ほどいた。いずれも自身氏族からなる軍を持っており、アブル・ファズル伝えところによれば、その総勢44ラク440)人に上った内訳は、騎兵384,558騎、歩兵4,277,057人、戦象1,863頭、大砲4,260門、船舶4,500艘だという。ムガル帝国期には、ザミーンダール治めるザミーンダーリーとニザーム領(後の藩王国)は明確に区別されていなかった。自治権を持つ首長太守ザミーンダール呼ばれることもあった。ここに初めて定義上の線引きをした一人で、中世インドにおけるザミーンダール重要性主張したのが、歴史家のウィリアム・ハリソン・モアランド(英語版)である。彼はザミーンダールを「封臣である首長」と定義した。つまりムガル帝国直接統治をおこなう地域にはザミーンダール存在せずそれ以外の地においては首長すなわちザミーンダール自治行いつつ、ムガル帝国従属し皇帝貢納(ナザラナ)を納めていたという構造指摘したのである一方でイルファン・ハビブはそれと異なり著書『ムガル・インドの農業システム』において、ザミーンダール2種類分けた一つ自身領地において「主権」を行使できる自治首長であり、もう一つ土地において優越的権利持ち地税徴収した平凡なザミーンダールで、後者はほとんどがムガル帝国により任命されたものであったという。 彼らは「仲介者」という意味でザミーンダール呼ばれ、 リョト(農民)などからの徴税請け負ったザミーンダーリー制北インド盛んに用いられたが、ムガル帝国影響力があまり及ばなかった南インドではそこまで広まらなかった。 歴史家S. Nurul Hasanは、ザミーンダール3つ分類した一つ目自治行っていたラーイ/ラージャなどの首長二つ目仲介者としてのザミーンダール三つめは主要なザミーンダールである。

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