ムガル帝国の衰退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:55 UTC 版)
詳細は「アウラングゼーブ」および「マラーター王国」を参照 17世紀後半になると、6代皇帝のアウラングゼーブは、従来の宗教的寛容策を改めて厳格なイスラーム教スンナ派に基づく統治を行い、ジズヤ(人頭税)を復活したためにヒンドゥー教徒の支持を失い、デカン高原のマラーター族もシヴァージーを中心に1674年にマラーター王国を形成したのをはじめ、各地で反乱が勃発した。 アウラングゼーブはシヴァージーの死後、デカン地方に大軍を以て南下した(デカン戦争)。彼はビジャープル王国、ゴールコンダ王国を滅ぼし、マラーター王国を南に押し返し、その死までにムガル帝国の最大領土を獲得した。 だが、1707年にアウラングゼーブが死ぬと、その悪政の結果、帝国は衰退にむかった。帝国は混乱し、ことに1719年は何人もの皇帝が入れ替わり、政治的混乱の極みに達した。 1708年、マラーター王国がマラーター同盟として再建され、1737年には王国宰相バージー・ラーオに率いられた軍勢がデリーを攻撃するまで勢力を拡大した。
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