ボーパールの戦いとマールワー割譲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/10 18:11 UTC 版)
「カマルッディーン・ハーン」の記事における「ボーパールの戦いとマールワー割譲」の解説
デカンにおいてニザーム王国が敗れたのち、バージー・ラーオの軍勢は毎年のようにムガル帝国の領土に攻め入り、マールワーなどからチャウタを徴収していたが、1730年代後半にはデリー近郊にまで進出していた。 バージー・ラーオはムガル帝国のデカンの領土を支配下に入れ、それまで略奪先だった中部インドのマールワーや西インドのグジャラート、デリー近郊までもマラーター同盟の支配下に置いた。 そして、バージー・ラーオは北上し、1737年3月28日にムガル帝国の首都デリーを攻撃し、その軍勢を破った(デリーの戦い)。アウラングゼーブの死後30年目に起ったこの出来事は、ムガル帝国の衰退をよくあらわしていた。 ムガル帝国はニザーム王国に援軍を要請しており、カマルッディーン・ハーンが派遣した援軍は間に合わず、バージー・ラーオの帰途に迎撃したが、同年12月24日にボーパールで敗れた(ボーパールの戦い)。 敗れたニザーム王国軍はボーパールに包囲されたのち講和を結ぶことに決め、1738年1月7日に講和し、ニザーム王国はマラーター同盟にマールワーを割譲せざるを得なかった。
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