アウラングゼーブの死後
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「グル・ゴービンド・シング」の記事における「アウラングゼーブの死後」の解説
グルのザファルナーマーに対する返答として、アウラングゼーブはグルと個人的に面会することを望むと回答してきた。グルはアウラングゼーブに面会するため1706年10月にデカン高原を発った。彼は当時王が滞在していたアフマドナガルへと向かう途中で現代のラージャスターン州付近を通過した。1707年3月、Baghaur (Baghor) において、彼はアウラングゼーブが死亡したとの知らせを受け、デリーを通ってパンジャーブへと戻ることを決断した。 王の死後、息子の間で後継者争いが起こった。3男のムハンマド・アーザム (Mohammad Azam, Azim) は自身が次代の王であると宣言した。2男のムアッザム (後のバハードゥル・シャー1世) は王位の正統性を主張するため、ペシャーワルから出陣した。グルの支持者であったBhai Nand Lal (以前ムアッザムの宮殿に仕えていた) はムアッザムにより書かれた手紙を彼のもとに運んだ。ムアッザムは王位を守るためグルの助けを求めており、非ムスリムに対する宗教的な寛容を政策に取り入れることを約束していた。グルはムアッザムを支援するため、Bhai Dharam Singhを将軍とする彼の支持者の一団を送った。1707年6月12日のジャージャウーの戦いにおいて、ムアッザムの軍はアーザム・シャー軍を破った。 ムアッザムはバハードゥル・シャーとして王位を継承した。会合を持つため、彼は1707年7月23日にグル・ゴービンド・シングをアーグラに招いた。グルはこれを名誉をもって受け、「Hind Ka Pir」 (インドのピール) の称号を与えられた。グルは君主と1707年11月までアーグラに滞在した。彼はドールプルを布教活動の中心地とし、デカン高原に進むまで長い間周辺地域を布教して回った。1707年11月、君主はクシュワーハー(英語版)の反乱軍に対しラージプーターナーへ進軍した。彼はグルに同行を求めた。ラージプーターナーより、君主は彼の弟カーム・バフシュ(Kam Bakhsh)の反乱を鎮圧するためデカン高原へと進軍し、グルは君主に同行した。 グル・ゴービンド・シングはバハードゥル・シャーがシルヒンドのワズィ-ル・カーンに対して親密な態度を取る事を快く思っていなかった。彼はヒンゴーリーで君主と別れ、1708年7月にナーンデードに到着した。ナーンデードにおいて、グルはゴーダーヴァリ川河畔に宿営を張った。帝国軍の前将軍であったSaiyad Khanは彼の立場を辞任し、グルに会うためKangraからナーンデードまできた。 旅行中、グルはMadho Dasと呼ばれる「bairagi」 (隠者) に会った。彼はカールサーでGurbakhsh Singhとして活動を始めた。Gurbakhsh Singhは一般的にはバンダー・シング(英語版)もしくはバンダー・バハードゥルとして知られており、グルが最も信頼の置く将軍となった。 ナーンデードにいる間、グルはSaiyad Khanの妹であり、SadhauraのPir Budhu Shahの妻であったNasiranからの手紙を受け取った。手紙で彼女はグルに対し、帝国軍がSadhauraを蹂躙し、Pir Budhu Shahがグル・ゴービンド・シングに対する忠誠を誓ったため、カーフィル (異端者)であるとして絞首刑に処したと知らせた。 グルは君主がワズィル・カーンのプロパガンダの餌食になったと認識し、彼の支持者全員を殺す計画を立てた。彼は君主に手紙を送り、Pir Budhu Shahの死に対する説明を求めた。君主からの返答はなかった。代わりにグルは君主が彼に対して戦いを起こすことを計画しているとの噂を聞いた。グルはバンダー・シングをカールサーの指揮官に任命し、パンジャーブに向けて進軍するよう指示した。
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