インドへの移住と地位の上昇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/25 13:24 UTC 版)
「サアーダト・アリー・ハーン」の記事における「インドへの移住と地位の上昇」の解説
1680年頃、サアーダト・アリー・ハーンはイランのホラーサーン地方、ニーシャープールに生まれた。父はシーア派の商人であったが、母はサファヴィー朝のアッバース2世に仕えたキジルバシュの宰相の娘であった。 1707年3月、ムガル帝国の皇帝アウラングゼーブの死後、バハードゥル・シャー1世が帝位を継承したが、帝国では反乱が相次ぎ、その広大な領土は徐々に解体されていった。 1709年、サアーダト・アリー・ハーンはこうした情勢の中、イランからインドへと移住し、ムガル帝国のイラン系貴族となった。皇帝バハードゥル・シャー1世のもとでは彼は陣営監督であった。 サアーダト・アリー・ハーンは帝国の皇帝ムハンマド・シャーの信任厚く、1720年11月20日には「ブルハーヌル・ムルク」(Burhan ul-Mulk)の称号を与えられたばかりではなく、1721年1月21日には皇帝警護長官に任命された。 また、1720年10月15日から1722年9月1日にかけては、アーグラの太守、ファッルハーバードなどの城塞司令官(ファウジュダール)であった。
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