インドへの赴任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 17:33 UTC 版)
「フランシスコ・デ・アルメイダ」の記事における「インドへの赴任」の解説
ヴァスコ・ダ・ガマによってインド航路が開拓された後にポルトガルはインドへの進出を開始し、香料貿易の独占を試みた。マヌエル1世はトリスタン・ダ・クーニャをインド方面の司令官に任命しようと考えるがクーニャが事故で負傷し、彼の代理としてアルメイダが3年の任期で「副王」に任命された。副王となったアルメイダには外交、戦争、司法の全権が委ねられ、インド洋世界でのポルトガルの拠点となる要塞の建築が命じられる。 1505年3月25日にアルメイダは22隻の艦船を率いてポルトガルを出航し、アルメイダの航海に従った乗員の中にはフェルディナンド・マゼランも含まれていた。インドに向かう途上でアルメイダの艦隊はキルワ島、モンバサ、ソファラなどの東アフリカのスワヒリ国家に攻撃を加えた。1505年7月にアルメイダの艦隊はキルワ島に到着し、キルワ国王に降伏勧告を拒まれたため、軍事力によって島を制圧する。キルワ、ソファラには要塞が建てられたが、ポルトガルに抵抗を続けるモンバサはポルトガル兵による破壊と略奪に晒された。マリンディを経由し、9月13日にアルメイダはインドのアンジェディヴァ島(英語版)に到着する。カナノール(カンヌール)に寄港したときにアルメイダははじめて副王の称号を用い、インド総督としての活動を開始した。 出港に先立ってアルメイダはマリンディ、カナノール、コーチンなどの非イスラム勢力との友好関係の維持を命じられており、コーチンに進んだ後、マヌエル1世から預けられていた王冠を現地の王に授けた。ポルトガルの出現はインド洋世界のイスラム国家とイスラム商人に危機感を抱かせ、エジプトのマムルーク朝はローマ教皇に警告を発した。1506年3月にカリカット(コーリコード)のザモリンをはじめとするイスラム勢力の連合艦隊がコーチンに進軍するが、アルメイダは息子のロウレンソを司令官とする艦隊を派遣し、イスラム連合軍を撃破する。 ポルトガル軍は1507年にカリカットとカナノールの連合軍に勝利を収めるが、1508年にチャウルでグジャラート王国とマムルーク朝の連合軍に敗北を喫し、ロウレンソは戦死する(チャウルの戦い)。ロウレンソの遺体はグジャラート側の司令官マリーク・アヤースによって丁重に葬られ、アルメイダの元にはマリーク・アヤースからの悔やみの手紙が届けられた。ロウレンソが戦死した時にアルメイダの副王の任期はすでに過ぎており、後任者であるアフォンソ・デ・アルブケルケがコーチンに到着していた。息子の敵を討つためにアルメイダはアルブケルケの許可を受けて一時的に副王の職に留まり、1509年2月のディーウ沖の海戦でインド、マムルーク朝の連合軍を破る。ディーウ沖の戦いの後、カリカットのザモリンは和平を申し入れ、カリカットにポルトガルの要塞が建てられた。 戦闘に勝利したアルメイダはコーチンに帰還するが、インド経営の方針の違いからアルブケルケに副王職を返上しようとしなかった。アルメイダはイスラム商人の海上貿易を妨害するための海上での軍事行動を重視し、多額の出費を要する陸上拠点の強化に否定的な見解を持っていたため、陸上の拠点の確保によって貿易の拡大を図るアルブケルケと対立していた。また、1506年からアラビア海方面での軍事活動に従事していたアルブケルケはホルムズ島に要塞を建設したが、アルブケルケの方針に反対する部下の一部がアルメイダの元に逃れて不満を訴える事件が起きていた。ジョアン・デ・バロスの『アジア史』などの史料には、現地のポルトガル人がアルメイダ派とアルブケルケ派に分かれて対立し、両者の不和はコーチンの住民にも知れ渡っていたことが記されている。一時はアルブケルケが投獄されるが、ポルトガル本国から派遣されたドン・フェルナンド・コウティニョの調停によって両者の対立は解消される。1509年11月に副王の職を返上したアルメイダは本国への帰国の途に就いた。アルメイダは清廉な人物である一方、任地で自分の信念に基づいた昇給、昇進の指示を出していたため、国王や多くの部下が彼の人事に不満を抱いていたと記されている。
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インドへの赴任
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「ギルバート・ウォーカー」の記事における「インドへの赴任」の解説
カルカッタのプレジデンシー大学(Presidency University)の物理学教授だったジョン・エリオット(John Eliot)は、モンスーン予報の研究を進め、1895年からインド全土を対象とした降水量の季節予報を開始した。彼は1899年にインド気象局長官に就任したが、その年のモンスーン予報では飢饉を予知できなかった。新聞紙上で激しく非難され、そのため1901年にはモンスーンの季節予報は機密文書扱いとなり、気象局の外には発表されなくなった。エリオットはケンブリッジ大学の同窓で、卒業試験で数学首席(シニア・ラングラー)を得ていたギルバート・ウォーカーに目を付けた。 ウォーカーは、インドの気象事業を率いる人物としてまったくありそうにない候補者だった。ケンブリッジ大学において非凡な数学者として認められおり、既に学術的に高い栄誉を獲得していた。しかも専門は気象学とは全く関係のない数理物理学であり、主たる研究は電気力学の数学的理論だった。彼はトリニティ・カレッジの数学科講師というアカデミックな環境で安定した学究生活を送っていた。しかし応用数学者として何かに挑戦する機会の不足を感じており、これがウォーカーを気象学に駆り立ててインドへ赴任させる動機の一つとなった。 1903年にインドへ渡り、インド気象局長官のジョン・エリオットから引き継ぎを受けた後、1904年にその後任に任命され、1924年までそのポストに就いた。モンスーン予報の研究を始めたウォーカーは、予報の理論など、この分野の知見が自分にはほとんどないこと、それまでの気象学がこの分野ではほとんど使えないことを理解した。「地球上の気象の関係は、理論的な考察からそれらを導こうと試みても無駄なほどに複雑である」と述べている。 確立された理論から数学を駆使してモンスーン予報を行える見込みがないとわかると、ウォーカーは物理学的な因果関係を追い求めるのではなく、関連する全ての気象記録を集めてそれらを統計学的に解析した。
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