学究生活
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「ポール・ファイヤアーベント」の記事における「学究生活」の解説
1955年、ファイヤアーベントはイギリスのブリストル大学で最初のアカデミックポストに就き、科学哲学の講座を担当した。後年、彼はバークレー、オークランド、サセックス、イェール、ロンドン、ベルリンなどでも教授(もしくは同等職階)として働いた。 この時期、ファイヤアーベントは後に自身が「アナーキスト的」もしくは「ダダイスト的」と表現する、科学哲学における近代理性主義的立場に反する、ルールを教条主義的に使用することの否定という、科学についての批判的な見方を唱えている。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにて、ファイヤアーベントはポパーの同僚であるイムレ・ラカトシュと出会った。ラカトシュは自らが科学の合理的主義的立場を擁護し、ファイヤアーベントがそれを攻撃するという対話編の出版を計画していた。この共同出版の計画は1974年のラカトシュの急死によって頓挫した。「方法への挑戦」は科学に関する現代の哲学的見地についての有名な批評となり、多くの反応を引き起こした。ファイヤアーベントの文章には他の科学哲学者には無い情熱とエネルギーとがあったが、ファイヤアーベントは自叙伝で、その為にこうむった大きな対価について明かしている。 ある時期、私はかなり抑鬱症的になった。その「鬱」は一年以上続いた。それはまるで一匹の動物のようで、非常にはっきりし、どこにいるかも判るようなものだった。眼が覚める、目を開く、さあ、どうかな、いるかな、いないかな。気配がない。ねむっているのかもしれない。今日は私を悩ませないでいてくれるかもしれない。そっと、そおっと、私はベッドから起きる。静かだ。台所へ行く。朝食を始める。音はしない。テレヴィジョン? そう「おはよう、アメリカ」。あのデイヴィッド・某なる人物、私には我慢できない男だ。食べる、番組のゲストを見る。次第に食物が胃に満ちてくる、力が湧いてくる。さあ手洗いに急いで直行する。朝の散歩に出る。ああ、やっぱりいる。我が忠実なる「鬱」よ。「私抜きで出かけられると思ったの」。 — 村上陽一郎訳『哲学、女、唄、そして…』p.210-211 1958年、ファイヤアーベントはカリフォルニア大学バークレー校に移り、アメリカの市民権を得た。ロンドンやベルリン、イェールでの(客員)教授等の後、ニュージーランドのオークランド大学で1972年から74年まで教鞭をとったが、年限の後は常にカリフォルニアに戻っていた。 1980年代、ファイヤアーベントはチューリッヒ工科大学とバークレーの往復生活を楽しんでいたが、1989年10月のロマプリエタ地震をきっかけにバークレーを去り、イタリアに移った後、チューリヒに落ち着いた。 1991年に定年退職してからも、ファイヤアーベントは頻繁に論文を発表し、自叙伝の執筆を行った。 1994年、脳腫瘍とのしばしの闘病生活の後、スイスのレマン湖を臨むジュノリア病院にて永眠した。
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学究生活
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1955年クイビシェフ工業大学の爆弾専門課程を卒業する。1955年クイビシェフ工業大学助教授として母校で教壇に立つ。1959年レニングラード工科大学の助手。1962年レニングラード工科大学大学院を修了し、1965年同大学講師となる。ソ連科学アカデミー会員候補となり、1966年化学分野における理学博士号を取得し、1967年から1968年にかけてレニングラード工科大学教授、学科長、化学・有機窒素合成技術学部長となる。この間、450の論文と370の新案特許を取得した。主要論文として「ニトロ化学、高エネルギー化学における混合技術」がある。1981年には『総合化学ジャーナル』(現在の『ロシア総合化学ジャーナル』)誌の編集長となる。
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学究生活
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1850年の終りにチャールズはラグビー校を卒業し、休養期間をおいて、1851年1月に父の母校であるオックスフォード大学のクライスト・チャーチ・カレッジに入校したが、47歳だった母フランシスが髄膜炎か脳梗塞と思しき脳炎で死去し、入校の僅か2日後に実家に呼び戻された。 翌年、チャールズは文学士号第1次試験に合格し、父の旧友エドワード・ピュージー(英語版)から、スチューデントシップ(クライスト・チャーチにおける特別研究員)に指名された。 1854年にクライスト・チャーチを最優秀の成績で卒業した後、同校の数学講師となったチャールズは以降26年間にわたり仕事を続けた。実は卒業後は国教会の司祭職の資格を取ることが入学の条件であったのだが、表向きには「吃音が説教に支障をきたす」ことを主な理由として、背景には上記のようなチャールズ自身の宗教的葛藤を理由として聖職者の資格を取ることを拒み続けたのではないかと推測されている。 また、チャールズはオックスフォードでてんかんと診断された。これは当時の社会では非常に不名誉なことだった。しかし、近年のシカゴ・イリノイ大学てんかん診療所の理事ジョン・R・ヒューズは、チャールズのてんかんは誤診だった可能性を主張している[要出典]。 マイケル・フィッツジェラルド(英語版)は、てんかんではなく、自閉症スペクトラム症であったとしている。
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