学究の後半生とは? わかりやすく解説

学究の後半生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/02 14:21 UTC 版)

ヤコプ・フルト」の記事における「学究の後半生」の解説

この頃には、エストニア人フォークロア忘却の淵から救い出し整理出版するというライフワーク節目迎えた。フルトは独自の方言・文化維持するセトゥ地方エストニア語版)へ学生調査員派遣し自身幾度も足を運んで重要な民謡収集した1888年2月末には有力紙上で民衆遺産である民話・民謡神話伝説などの収集報告求む」との呼びかけ行い (et)、これはエストニア全土大反響巻き起こした農民から大学生まで、1400人以上が無償フォークロア収集呼びかけ応じ報告者の中には画家クリスチャン・ラウトエストニア語版)や作家アウグスト・キツベルク(ドイツ語版)、レスリング世界チャンピオンのゲオルク・ルーリヒ(ロシア語版)など後の著名人含まれていた。そして、幾多曲折10年上の歳月経て完成見たフォークロア集『モヌメンタ・エストニアエ・アンティクアエ』(et) は、全162114695ページに、47556篇の民謡掲載され浩瀚なものであったその後もフルトは民俗学研究専念し1901年には牧師職から自由になることを許された(ただし、名誉牧師の籍はペテルブルク残された)。1904年にはフィンランド文学協会フィンランド語版)によって、フルトの『セトゥ民謡集』が刊行された。フィンランド・カレリア・エストニア民謡比較材料豊富に提供したこのコレクションは、カールレ・クローン率いフィンランド学派歴史地理方法論大きく寄与することとなった。 しかし、長期に渡る不休研究生活負担から、フルトは1904年から1905年食中毒による盲腸炎悪化させた。そして、『セトゥ民謡集第3巻刊行間近に控えた1907年1月13日ユリウス暦1906年12月31日)に世を去った遺体故郷へ運ばれユーリエフのラーディ墓地ロシア語版)内聖マリア墓地 (et) へ葬られた。

※この「学究の後半生」の解説は、「ヤコプ・フルト」の解説の一部です。
「学究の後半生」を含む「ヤコプ・フルト」の記事については、「ヤコプ・フルト」の概要を参照ください。

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