ファイヤアーベントとは? わかりやすく解説

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ファイヤアーベント

名前 Feyerabend

ポール・ファイヤアーベント

(ファイヤアーベント から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/21 17:16 UTC 版)

ポール・ファイヤアーベント
Paul Karl Feyerabend
生誕 (1924-01-13) 1924年1月13日
オーストリアウィーン
死没 (1994-02-11) 1994年2月11日(70歳没)
スイスヴォー州
時代 20世紀の哲学者
地域 西洋哲学
学派 新科学哲学、認識論的アナーキズム、反・反証主義
研究分野 科学哲学批評反証可能性認識論政治哲学
主な概念 認識論的アナーキズム
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ポール・カール・ファイヤアーベント(Paul Karl Feyerabend、1924年1月13日 - 1994年2月11日)は、オーストリア出身の哲学者科学哲学者である。アメリカ合衆国にあるカリフォルニア大学バークレー校の哲学教授を30年にわたり務めた。主著は『方法への挑戦("Against Method")』(1975年)、『自由人のための知("Science in a Free Society")』(1978年)、『理性よ、さらば("Farewell to Reason")』(論文集:1987年)。ファイヤアーベントは科学へのアナーキスティックな見方と、普遍的な方法論の否定によって有名になった。ファイヤアーベントは科学哲学にくわえ、科学社会学においても影響力を持つ人物である。

経歴

若年期

ファイヤアーベントは1924年ウィーンで生まれ、その地で高等学校までを過ごした。この時期にファイヤアーベントは多読の習慣を身につけた。また、演劇への興味を持ち、声楽のレッスンも受け始めた。

1942年の4月、高等学校を卒業した後に、ドイツの労働奉仕隊に徴用された。ピルマゼンス(ドイツ、ザールブリュッケンの近くの町)での基礎訓練の後、ブルターニュ地方のブレスト近くの村、ケレルヌ・アン・バに配属された。ファイヤアーベントはこの時期を退屈なものとして、次のように描写している:「その田舎にやってきた週は、塹壕を掘ったり、またそれを埋めたりした」(村上陽一郎訳『哲学、女、唄、そして…』p.60)。

一時除隊の後、正規陸軍に徴用され、また士官学校で自主講座を受け持った。自叙伝の中には、士官学校での訓練課程中に戦争が終わることを望んでいたという記述がある。しかしこの望みは叶わなかった。1943年の12月、士官としてロシア戦線北部に配置された。ここで鉄十字章の叙勲を受け、少尉にまで昇進している。

赤軍の進行に対しドイツ軍が撤退をはじめた後、撤退する部隊の指揮中に3発の銃弾を受けた。銃弾の一つが腰椎に命中し、残りの生涯において歩行障害を被ることになった。また、一生の間、しばしば激しい痛みに見舞われることになった。彼は戦争の残りの期間を療養して過ごした。

戦後、大学時代

戦後、ファイヤアーベントはアポルダ(ヴァイマール近くの小さな町)で市のイベントの台本を書く、一時的な仕事を得た。彼はマルクス主義の劇作家であるベルトルト・ブレヒトに影響を受けた。ブレヒトに東ベルリンオペラでの助手として招待を受けたが、ファイヤアーベントはそれを断った。

ファイヤアーベントは、ヴァイマール音楽院で多くの授業を取り、ウィーンに戻ってからは歴史学社会学を学んだ。しかし歴史学と社会学には満足できず、すぐに物理学に転科した。そこでファイヤアーベントはフェリックス・エーレンハフトと出会い、エーレンハフトの実験はファイヤアーベントの後年の自然科学の見方に影響を与えることになった。

ファイヤアーベントは研究領域を哲学に変え、観察命題に関する学位論文を提出した。自叙伝において、彼は当時の自分の哲学的立場を「頑固な経験主義者」(前掲書 p.96)と表現している。

1948年、ファイヤアーベントは、アルプバハで開かれた、オーストリア・カレッジ協会の主催による最初の国際夏季学校に参加した。ここでファイヤアーベントはカール・ポパーと初めて出会った。初期のポパーは後期ポパーが与えた「ネガティブ」な印象と同等の「ポジティブ」な印象をファイヤアーベントに与えた。

1951年ヴィトゲンシュタインの下で研究するため、ブリティッシュ・カウンシルの奨学金を受ける。しかし、ファイヤアーベントの渡英前にヴィトゲンシュタインが死んだため、指導教授としてポパーを選び、1952年、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに移った。ファイヤアーベントは、当時のポパーからの影響に関して、ポパーの考えに「参っていた」(前掲書 p.141)と説明している。

その後ファイヤアーベントはウィーンに戻り、ポパーの「開かれた社会とその敵」の翻訳や、戦後オーストリアの人文学の調査や、百科事典の項目の執筆など、多くのプロジェクトに関与した。

学究生活

1955年、ファイヤアーベントはイギリスのブリストル大学で最初のアカデミックポストに就き、科学哲学の講座を担当した。後年、彼はバークレー、オークランド、サセックス、イェール、ロンドン、ベルリンなどでも教授(もしくは同等職階)として働いた。

この時期、ファイヤアーベントは後に自身が「アナーキスト的」もしくは「ダダイスト的」と表現する、科学哲学における近代理性主義的立場に反する、ルールを教条主義的に使用することの否定という、科学についての批判的な見方を唱えている。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスにて、ファイヤアーベントはポパーの同僚であるイムレ・ラカトシュと出会った。ラカトシュは自らが科学の合理的主義的立場を擁護し、ファイヤアーベントがそれを攻撃するという対話編の出版を計画していた。この共同出版の計画は1974年のラカトシュの急死によって頓挫した。「方法への挑戦」は科学に関する現代の哲学的見地についての有名な批評となり、多くの反応を引き起こした。ファイヤアーベントの文章には他の科学哲学者には無い情熱とエネルギーとがあったが、ファイヤアーベントは自叙伝で、その為にこうむった大きな対価について明かしている。

ある時期、私はかなり抑鬱症的になった。その「鬱」は一年以上続いた。それはまるで一匹の動物のようで、非常にはっきりし、どこにいるかも判るようなものだった。眼が覚める、目を開く、さあ、どうかな、いるかな、いないかな。気配がない。ねむっているのかもしれない。今日は私を悩ませないでいてくれるかもしれない。そっと、そおっと、私はベッドから起きる。静かだ。台所へ行く。朝食を始める。音はしない。テレヴィジョン? そう「おはよう、アメリカ」。あのデイヴィッド・某なる人物、私には我慢できない男だ。食べる、番組のゲストを見る。次第に食物が胃に満ちてくる、力が湧いてくる。さあ手洗いに急いで直行する。朝の散歩に出る。ああ、やっぱりいる。我が忠実なる「鬱」よ。「私抜きで出かけられると思ったの」。 — 村上陽一郎訳『哲学、女、唄、そして…』p.210-211

1958年、ファイヤアーベントはカリフォルニア大学バークレー校に移り、アメリカの市民権を得た。ロンドンベルリンイェールでの(客員)教授等の後、ニュージーランドのオークランド大学1972年から74年まで教鞭をとったが、年限の後は常にカリフォルニアに戻っていた。

1980年代、ファイヤアーベントはチューリッヒ工科大学とバークレーの往復生活を楽しんでいたが、1989年10月のロマプリエタ地震をきっかけにバークレーを去り、イタリアに移った後、チューリヒに落ち着いた。

1991年に定年退職してからも、ファイヤアーベントは頻繁に論文を発表し、自叙伝の執筆を行った。

1994年、脳腫瘍とのしばしの闘病生活の後、スイスのレマン湖を臨むジュノリア病院にて永眠した。

主な著作

関連項目

外部リンク


ファイヤアーベント

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/21 22:32 UTC 版)

ラカトシュ・イムレ」の記事における「ファイヤアーベント」の解説

ポール・ファイヤアーベントは、ラカトシュ方法論全くもって方法論などではなく、「方法論要素あるかのように『聞こえる』言葉にすぎない主張した。彼は、ラカトシュ方法論実践においては、ファイヤアーベント自身立場である認識論的アナーキズム何ら変わるところはないと言っている。彼は(ラカトシュ死後に)「開かれた社会科学」のなかでこう書いている: ラカトシュ合理性の基準、つまり論理含まれる基準制約が強すぎで、科学何らかの判断下す際の妨げになることを理解して言葉にした。そのため彼は科学者合理性の基準を破ることは許す(彼はこういった基準から考えれば科学は「合理的」でないと言っている)。しかし、彼はリサーチプログラム長期的に明らかな特徴リサーチプログラム前進的でなければならない―を示すことを要求する。私はこういった要求のもとでは少しも科学行えないと主張する。どんな発展も私のこの主張賛成するラカトシュとファイヤアーベントは、ラカトシュ合理主義的な科学記述進めてファイヤアーベントがそれを攻撃するような共作執筆する計画をしていた。

※この「ファイヤアーベント」の解説は、「ラカトシュ・イムレ」の解説の一部です。
「ファイヤアーベント」を含む「ラカトシュ・イムレ」の記事については、「ラカトシュ・イムレ」の概要を参照ください。

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