ダダイスムとは? わかりやすく解説

ダダイスム【(フランス)dadaïsme】

読み方:だだいすむ

第一次大戦中から戦後にかけて欧米興った芸術運動既成あらゆる芸術的社会的価値体系否定し極端な理性反道主義唱えた文学ではツァラ美術ではデュシャン・マン=レイなどが代表的ダダイズムダダ


ダダイスム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/30 07:37 UTC 版)

ダダイスム: Dadaïsme)は、1910年代半ば[1]に起こった芸術思想・芸術運動のことである。ダダイズムダダ主義[2]あるいは単にダダとも呼ばれる。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされたニヒリズムを根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする。ダダイスムに属する芸術家たちをダダイストとよぶ。


  1. ^ Mario de Micheli (2006). Las vanguardias artísticas del siglo XX. Alianza Forma. p.135-137
  2. ^ 川路, 柳虹 (1979). “ダダ主義とは何か (日本のダダイズム(一九二〇-一九二二)(資料))”. Reports on cultural science (16): p7–11. https://ci.nii.ac.jp/naid/40003540963. 
  3. ^ Joan M. Marter, The Grove Encyclopedia of American Art, Volume 1, Oxford University Press, 2011 Archived 2020-02-09 at the Wayback Machine., p. 6, ISBN 0195335791
  4. ^ a b 池田誠「風博士におけるナンセンスとダダとの関係」武蔵大学人文学会雑誌32巻1号(2006)
  5. ^ 辻潤年譜
  6. ^ 吉行和子「吉行エイスケ 作品と世界」国書刊行会,1997年、吉行淳之介『詩とダダと私と』作品社、1997年
  7. ^ 高橋新吉
  8. ^ 日本においてダダはシュルレアリスムよりもインパクトが強かったため、ヨーロッパにおけるようなダダからシュルレアリスムへの芸術運動のシフトが行われずに、強い影響力を持った。



ダダイスム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 05:08 UTC 版)

ピエール・ルヴェルディ」の記事における「ダダイスム」の解説

1916年詩人画家彫刻家のピエール・アルベール=ビロフランス語版)が創刊した『SICフランス語版)』(Sons (音)、Idees (思想)、Couleurs (色彩) の頭文字つなげた誌名)もこの頃には、『南北』誌と並んで前衛芸術文学作品次々と掲載するようになり、特に1918年アラゴン、スーポー、ツァラジャン・コクトーフランシス・ピカビアダダイスト活動の場とし、ルヴェルディも1918年10月から翌1919年10月まで随筆、詩、小説連載)をしている。1919年2月ブルトンアラゴン、スーポーによって『リテラチュール文学)』誌が創刊された。創刊号には3人のほか、ルヴェルディ、アンドレ・ジッドポール・ヴァレリーレオン=ポール・ファルグ、アンドレ・サルモン、マックス・ジャコブブレーズ・サンドラールジャン・ポーラン名を連ねているが、まもなくポール・エリュアール次いでルネ・クルヴェルロベール・デスノス参加。翌1920年1月チューリッヒからパリ活動拠点移したツァラダダイスト参加しダダの機関誌みなされるようになった。ルヴェルディは創刊号に「白紙委任状」と題する記事掲載しているが、これは、当初彼がブルトン誌名として提案したものでもあり、既成秩序否定破壊し既存文学文字通り白紙」に戻すことで新し表現生み出そうとするダダイスムの思想象徴する概念であり、これに対して、「リテラチュール文学)」という誌名は、このような文学白紙化アイロニーとして表現したものとなっている。だが、早くも1921年にはツァラブルトン対立露わになり、『コメディア(フランス語版)』紙上激し論争を展開。ダダイスム運動の内部でもツァラ派とブルトン派が衝突する事件重なった。この結果、『リテラチュール』誌は1921年8月13号をもっていったん終刊となり、1922年3月再刊1924年6月まではブルトン一人主筆務め彼の友人であるピカビアピカソマルセル・デュシャンマン・レイらの作品表紙を飾るようになった

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ダダイスム

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ルネ・クルヴェル」の記事における「ダダイスム」の解説

1921年徴兵され服役中作家マルセル・アルラン、ジャック・バロン(フランス語版)、マックス・モリーズ(フランス語版)、ジョルジュ・ランブール(フランス語版)、ロジェ・ヴィトラック(フランス語版)と出会い月刊雑誌アヴァンチュールAventure冒険)』を創刊し主幹務めた。わずか3号で翌1922年終刊となったが、アンドレ・ブルトンルイ・アラゴントリスタン・ツァラジャン・コクトーらも寄稿したフランス語版ウィキソースに本記事関連した原文ありますAventure クルヴェルは引き続きブルトンツァラ中心とするダダイスムの運動参加した。後にシュルレアリスム運動率いることになるブルトンらはすでに1919年にこの運動の最初試みである自動記述行い、この結果ブルトンアラゴン、スーポーが創刊した「反文学」の文学雑誌リテラチュール文学)』に「磁場」として発表していた。1922年9月にクルヴェルはシュルレアリスムもう一つ重要な試みである催眠実験提案した。クルヴェルのほか、バンジャマン・ペレロベール・デスノス被験者になり、他の参加者ブルトンポール・エリュアールマックス・エルンスト、マックス・モリーズ、フランシス・ピカビア)が催眠状態にある彼らに質問した。クルヴェルの回答口頭弁論のようなものであった目覚めたとき、クルヴェルは語ったことについて何も覚えていなかった。テーブルひっかくようなしぐさをしたことを指摘すると、書きたい気持ち現れかもしれないと言った。この催眠実験は「霊媒登場」として『リテラチュール』誌第2シリーズ第6号1922年11月)に掲載された。だが、この後催眠実験繰り返しているうちに、クルヴェルは催眠状態自殺企てるようになり、デスノスはナイフ持って参加者襲いかかるなど自他ともに危険な状況になり、実験打ち切らざるを得なくなった一方、すでに1921年頃からダダイスムの運動内部においてブルトンツァラ対立露わになっていた。クルヴェルはピエール・ド・マッソ(フランス語版)らとともにむしろツァラであった決裂決定的なものとなったのは、1923年7月6日ミシェル劇場行われた髭の生えた心臓の夕べ」においてであったツァラ演劇ガス心臓』が上演されたこの夕べには、ブルトン派(エリュアールアラゴンペレ、デスノス)も参加していた。第1部最後にマッソ既存文学・芸術価値をすべて破壊するという趣旨宣言読み上げた。ところが、マッソが「ジッド死んだピカソ死んだ」という箇所読んだとき、ピカソ友人ピカソ侮辱したことに腹を立てたブルトン舞台飛び上がってマッソ殴りかかったエリュアールツァラとクルヴェルに平手打ち食らわせた挙句警察を呼ぶ騒ぎになり、パリ警視庁命令第2部の上演は取り消しとなった。ダダイスムもシュルレアリスム既存秩序価値破壊するという点では共通する運動であったが、根本的に、すべてを無意味とするダダイストと、従来無意味とされてきた無意識夢に新たな価値見出し、これを表現しようとしたシュルレアリスト思想的対立し以後ダダ決裂したシュルレアリスト活動本格的に開始されることになったツァラであったクルヴェルは、1924年ブルトンの「シュルレアリスム宣言」および機関誌『シュルレアリスム革命』創刊には参加せずそれどころか、シュルレアリスム宣言2週間前にチューリッヒツァラ親しかった詩人イヴァン・ゴル(フランス語版)が創刊した『シュルレアリスム』誌に参加してブルトンとの対立際立たせることになった。『シュルレアリスム』誌創刊号には、ギヨーム・アポリネールマルセル・アルラン、ピエール・アルベール=ビロフランス語版)、ピエール・ルヴェルディ、ポール・デルメ(フランス語版)のほか、キュビスム画家ロベール・ドローネーらも寄稿していたが、「シュルレアリスム」という言葉の使用めぐってブルトンゴルの間に対立生じ結局ゴルは『シュルレアリスム』誌を撤回せざるを得なくなったフランス語版ウィキソースに本記事関連した原文ありますLe Disque Vert クルヴェルは以後文芸雑誌ヌーヴェル・リテラチュール(フランス語版)の編集事務局務め、『ディスク・ヴェール(Le Disque vert、緑の円盤)』誌(1922年創刊1955年終刊)、『フイユ・リーブル(Les Feuilles libres、ルーズリーフ)』誌(1918-1928)、『欧州評論La Revue européenne)』誌(第1シリーズ:1923-1926)、『モンパルナスMontparnasse)』誌(1922-1926)などに詩や評論寄稿した評論は「マックス・ジャコブ日常的神秘性」、「ありがとう、ジョルジョ・デ・キリコ」、「衛生学的錬金術フロイト」(いずれも『ディスク・ヴェール』誌掲載)など、シュルレアリスト思想的基盤共有するものであった

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ダダイスム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 02:34 UTC 版)

ルイ・アラゴン」の記事における「ダダイスム」の解説

1919年6月復員し医学勉強再開。ラリボワジエール病院フランス語版)で研修医務めた一方1918年12月に『ダダ3』誌にダダ宣言掲載された後、1919年3月ブルトン、スーポーとともにリテラチュール』を創刊した。創刊号には、ルヴェルディ、アンドレ・ジッドポール・ヴァレリーレオン=ポール・ファルグ、アンドレ・サルモン(フランス語版)、マックス・ジャコブブレーズ・サンドラールジャン・ポーラン寄稿したが、1920年には既成秩序否定破壊目指すダダ宣言文次々と掲載されアラゴンもまた同年3月最初ダダ宣言発表するほか、ブルトン中心に即興劇など挑発的反芸術的な活動企画したアラゴンは後にフランス共産党入党することになるが、すでに1921年フランス社会党(SFIO)から分裂して結成されたときに、反戦掲げ唯一の政党であるという理由ブルトンとともに入党しようとした。だが、このときは、運営委員会代理務めていたジョルジュ・ピオク(フランス語版)に失望して断念したと、後に『ドミニック・アルバンとの対談』で語っている。 1921年には早くもトリスタン・ツァラブルトン対立露わになった。同年春に行った即興劇バレス裁判」は、極右的政治思想傾倒したモーリス・バレス対す批判として、彼を裁判にかけるという設定であった裁判長役はブルトン、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ(フランス語版)が原告アラゴンとスーポーが弁護士バンジャマン・ペレドイツ語を話すフランス兵証人演じた観客証人陪審員として参加し懲役20年判決下されたが、この劇でツァラ証人として登場しブルトンバレス並み卑劣扱いをした。同様にブルトンが「現代精神擁護」のための国際会議招集したときにも、ツァラはこれを伝統への回帰だとして参加拒否した。この結果ペレエリュアール、後にジャン・コクトーらもツァラ支持したが、アラゴンブルトン支持し、『リテラチュール』誌はダダ縁を切ることになった。これはすべてを破壊し無意味化するダダイスムと、無意味無意識重視し、そこに新し表現見出そうとするシュルレアリスム根本的な違いであった。 さらに、1923年7月6日ミシェル劇場行われた髭の生えた心臓の夕べ」はダダイスムの終焉告げ事件となったブルトンアラゴンペレらが参加したこの企画で、ダダイストのピエール・ド・マッソ(フランス語版)が「ジッド死んだピカソ死んだ」と宣言文読み上げたとき、友人ピカソ侮辱したことに腹を立てたブルトンらが舞台飛び上がってマッソン殴りかかり、警察を呼ぶ騒ぎになった既成秩序破壊唱えるダダが、最後に秩序の維持にあたる公権力訴えたのは決定的であった

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ダダイスム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 03:47 UTC 版)

フィリップ・スーポー」の記事における「ダダイスム」の解説

この頃チューリッヒでは1916年2月詩人のフーゴー・バルがキャバレー・ヴォルテール開店しトリスタン・ツァラジャン・アルプ亡命作家画家中心としたダダイスムの活動拠点となった1917年7月ツァラが『ダダ I』誌を刊行したときにはアルベールビロが『SIC』誌でいち早くこの運動取り上げ、これを知ったツァラが「黒人芸術に関する覚え書き6」と題する記事アルベールビロ送り、『SIC』誌1917年9月・10月合併号に掲載された。ツァラはルヴェルディの『南北』誌にも詩「わが心の闇大いなる嘆き歌」を送り、これは同誌1917年6月7月合併号に掲載された。スーポーは早速、アドリエンヌ・モニエ書店本の友の家」で『ダダ I』誌を入手したまた、1917年9月からアラゴンアドリエンヌ・モニエ書店出入りするようになり、スーポーはブルトンを介してアラゴン紹介された。これ以後、3人は同じ関心抱き活動共にすることになる。3人の共通点医学であったブルトンアラゴン医学専攻し、スーポーは医師息子であったからである。だが、それ以上に3人を結びつけたのは、ブルジョワ社会道徳秩序はじめとする既成価値対す不信感や、道徳宗教文学における権威対す反逆心、むしろ反道徳、反宗教、反文学精神であった。 スーポーはすでに、夢を見ると必ずすぐに書き付ける習慣があったし、「叙事詩映画によって表現されるうになる」というアポリネール言葉触発されて、現実離れしたイマージュカメラで追うような「映画詩」を書き始めていた。特にこの頃は、チャールズ・チャップリン『担へ銃』1918年)などが公開されモンマルトルジャズクラブ流行するなど米国文化紹介され時期でもあり、スーポーはこうした影響受けて1918年10月の『南北』誌に「ラグタイム」と題する詩を発表している。この詩は堀辰雄邦訳し、1929年の『文芸レビュー第1巻第7号掲載している。 スーポーにとってこうした試み指針となったのは、無名のまま没した詩人ロートレアモンの『マルドロールの歌であった。彼はこの詩集ブルトンアラゴン紹介した。『マルドロールの歌』は二人にとっても詩作方向性決定づけるものとなり、既存雑誌作品発表するより、むしろまったく新し雑誌作る必要がある感じた。こうして、1919年3月にスーポー、アラゴンブルトンによって『リテラチュール文学)』誌が創刊された。当初アラゴン、ルヴェルディ、マックス・ジャコブそれぞれ「新世界」、「鉄筋コンクリート」、「白紙委任状」という誌名提案していたが、ポール・ヴァレリー相談し彼の提案による「文学」が採用された。ただし、この誌名一種アイロニーであり、実際には反文学目指す前衛雑誌である。創刊号にはルヴェルディ、ヴァレリーアンドレ・ジッドレオン=ポール・ファルグ、アンドレ・サルモン(フランス語版)、マックス・ジャコブブレーズ・サンドラールジャン・ポーラン寄稿し第3号からポール・エリュアール第4号からピエール・ドリュ・ラ・ロシェルレイモン・ラディゲ第5号からツァラ参加したまた、ロートレアモンランボーシャルル・クロなどの詩を紹介している。スーポーは第4号から演劇、映画などを紹介する文化担当しチャップリン映画犬の生活』、アポリネール演劇ティレジアスの乳房』などについて詩的な評論書いている。さらに、第7号には代表作他の場所で(アイユール)」などの詩を掲載するほか、1919年10月第8号から12月第10号までブルトン共同で「磁場」を発表した。同誌はやがてダダイスムの機関誌みなされるうになるが、「磁場」は自動記述試みであり、ダダイスムを批判的に受け継ぐシュルレアリスム最初作品として重要である。フロイト自由連想法影響受けた自動記述は、理性制御されない純粋な思考表現しようとする試みであり、このために、できるだけ無意識に近い状態で浮かんでくる言葉書き付けて行き次第にその速度上げることで、主語主体性)が排除され内容前後脈絡のない抽象的な言葉イマージュ連続になる。スーポーとブルトンはこの実験毎日8時間から10時間にわたって行った。 『リテラチュール』誌に連載された「磁場」は翌1920年にオ・サン・パレイユ(フランス語版) (同じ意味で) 社から出版された。オ・サン・パレイユ社は、1919年に(後に共産党出版社編集長務めた)ルネ・イルソムが『リテラチュール』誌の活動支援するために創設した最初シュルレアリスム出版社であり、1935年廃業するまでの約15年間に、ブルトン、スーポー、アラゴンエリュアールサンドラールマックス・ジャコブらの著書出版した。スーポーの著書では、『磁場』のほか、『リテラチュール』誌に掲載された「他の場所で(アイユール)」、「対蹠地」、「ラグタイム」、「登攀」を含む詩集『風の薔薇』が1919年同社から出版されている。これらの詩はいずれ邦訳されている(邦訳参照)。なお、スーポーはこの頃すでに石油ガソリン監視局に職を得ていたため、自著だけでなく雑誌の出版のための費用かなりの程度負担することができた。また、職を得たことでスーポー家の家族会文学活動大目に見て経済的に支援した

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ダダイスム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/30 19:18 UTC 版)

反芸術」の記事における「ダダイスム」の解説

反芸術は、第一次世界大戦中からはじまったダダイスムにその端を発する反芸術的な作品の、初期にしてもっとも有名な例は、ダダイストマルセル・デュシャン1917年ニューヨークの無審査公募展・「アンデパンダン展」にリチャード・マット名義出展した『泉』である。この作品はただの既製品男性小便器寝かせたもので当時観念から見ればどう見て芸術品とも作品とも呼べるものではなく、無審査展のため仕方なく受け付けられたものの会場展示されることなく紛失するが、この処置抗議したデュシャンアンデパンダン展委員辞任し新聞にリチャード・マットの作品弁護しその意義訴え文章発表し大論争起こした。この事件の例のように、ダダイスムの活動美術文学など既存芸術はみ出すもので、結果芸術概念を非常に大きく広げることとなった

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ダダイスム

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 05:59 UTC 版)

バンジャマン・ペレ」の記事における「ダダイスム」の解説

最初に詩を発表したのは19歳のときで、「黄昏」という詩が『トラモンターヌ』という文芸誌掲載された。アンドレ・ブルトンとの出会いきっかけは、1920年ペレの母が、息子作家向いていると考えてブルトン連絡取ったからである。トリスタン・ツァラはすでに前年渡仏し、パリ活動していた。1919年3月にはブルトンルイ・アラゴンフィリップ・スーポーが『リテラチュール (文学)』を創刊した。この文芸誌は、創刊号キュビスム理論家ピエール・ルヴェルディのほか、アンドレ・ジッドポール・ヴァレリーレオン=ポール・ファルグ、アンドレ・サルモン(フランス語版)、マックス・ジャコブブレーズ・サンドラールジャン・ポーラン寄稿するなど、ダダイスムの雑誌として創刊されわけではないが、1920年に入るとダダ宣言次々と掲載された。だが、翌年には早くもツァラブルトン対立露わになり、他のダダイスト巻き込んで相互の溝を深めていった。同年春に上演され即興劇バレス裁判フランス語版)」は、かつてアナキスト耽美主義者として青年知識人深甚影響与えた文学者モーリス・バレス極右的政治思想傾倒したことを批判するものであり、裁判長役はブルトン、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ(フランス語版)が原告アラゴンとスーポーが弁護士ペレドイツ語を話すフランス兵証人演じた。この劇で証人として登場したツァラ観客の前でブルトンバレス並み卑劣扱いをした。この対立は、1922年1月ブルトン呼びかけた「現代精神綱領決定擁護のための」パリ会議ツァラ伝統への回帰だと批判したこと、同年3月ブルトンが『コメディア(フランス語版)』紙に「ダダ以後」と題する記事発表してツァラ中心とするダダイスムをすでに時代遅れであると批判したこと、さらにツァラがこれに対す応酬として『髭の生えた心臓』紙を創刊したこと、最後に、この新聞寄稿者企画した髭の生えた心臓の夕べ」でツァラ派とブルトン派の対立から乱闘起こり警察を呼ぶ騒ぎになったことなどから、ダダイスムは終焉告げることになったペレは『髭の生えた心臓』紙の創刊号(かつ最終号)に参加したツァラであったが、「髭の生えた心臓の夕べ」では、アラゴンとともに会場から追い出された。これ以後は、ブルトン中心とするシュルレアリスム活動、特に自動記述、夢の記述催眠実験などその主な活動に最も積極的に参加することになる。 こうした経緯から、『リテラチュール』誌もダダ縁を切ることになった1921年8月にいったん終刊となり、翌22年5月再出発した1924年6月廃刊となるまでブルトン主筆務めペレ同年10月号に「ダダ死んだ」という言葉で始まる散文詩「私の目を通して」を掲載した。この詩ではかつてのダダイストについて、「リヴェルディは錆びたナットジャン・コクトー天使の糞、レイモン・ラディゲ天使の糞掻きベラマックス・ジャコブキリスト心臓トリスタン・ツァラダダマン・レイ網膜の毛、リブモン=デセーニュは神の15分」と表現し、「ギヨーム・アポリネールマルセル・デュシャン待っている。私はダダ眼鏡外して、いざ、出発だ」と語っている。 なお、この間1921年最初詩集大西洋航路横断客船乗客』が刊行された。ブルトンとスーポーの自動記述試み磁場』が書かれ2年後刊行翌年)のことであり、『大西洋航路横断客船乗客』も『磁場』も同じオ・サン・パレイユ(フランス語版) (同じ意味で) 社から刊行されたが、この出版社は、1919年に(後に共産党出版社編集長務めた)ルネ・イルソムによって創設され最初シュルレアリスム出版社1936年廃業)であり、『大西洋航路横断客船乗客』はダダ叢書としての刊行であった。この詩集表紙画ジャン・アルプ描いている。次作コント(短い物語)集『サン=ジェルマン大通り一二五番地で』(1923年)と代表作詩集不死の病』はシュルリアリスムの作品集であり、いずれもリテラチュール』誌叢書として出版された。『不死の病』の扉にはマン・レイ写真掲載されている。これ以後作品集シュルレアリスム画家(特にイヴ・タンギージョアン・ミロマックス・エルンスト)や写真家(特にマン・レイ)との共作である。

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ダダイスム

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ゾフィー・トイバー=アルプ」の記事における「ダダイスム」の解説

1915年にタナーギャラリーの展覧会で彼女はダダイスムのアーティストジャン・アルプ出会ったそれ以降2人は、1943年に彼女が死去するまで協力して多く作品残した2人1922年結婚し、彼女は姓を「トイバー=アルプ」と変更した。 トイバー=アルプZurich Kunstgewerbeschule (現在のチューリッヒ芸術大学)で1916年から1929年まで織物その他のテキスタイルアートについて講義行った。彼女の1916年頃から1920年代にかけてのテキスタイルおよびグラフィック作品は、ピエト・モンドリアンカジミール・マレーヴィチらの作品と並ぶ最古構成主義作品である。これらの洗練された幾何学抽象概念は、色と形の間の相互作用微妙な理解反映するこの期間に彼女は、キャバレー・ヴォルテール中心としたチューリッヒ・ダダムーブメントに関わることとなった。彼女はダダイスムにインスパイアされたパフォーマンスダンサー振り付け師人形使いとして加わりキャバレー・ヴォルテールだけでなく他のスイスフランス劇場でも人形衣装およびセットデザインした1917年のギャラリー・ダダの開場公演で、彼女はフーゴ・バルの詩にマルセル・ヤンコ(英語版)のシャーマニズム的なマスク被って踊った1年後、彼女はトリスタン・ツァラと共にチューリッヒダダイスム宣言発表した。 彼女はまた、クロムメッキした木製の「"Dada Heads"」のような抽象的な多く彫刻作品製作した

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