ダダイスム【(フランス)dadaïsme】
ダダイスム
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ダダイスム(仏: Dadaïsme)は、1910年代半ば[1]に起こった芸術思想・芸術運動のことである。ダダイズム、ダダ主義[2]あるいは単にダダとも呼ばれる。第一次世界大戦に対する抵抗やそれによってもたらされたニヒリズムを根底に持っており、既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊といった思想を大きな特徴とする。ダダイスムに属する芸術家たちをダダイストとよぶ。
- ^ Mario de Micheli (2006). Las vanguardias artísticas del siglo XX. Alianza Forma. p.135-137
- ^ 川路, 柳虹 (1979). “ダダ主義とは何か (日本のダダイズム(一九二〇-一九二二)(資料))”. Reports on cultural science (16): p7–11 .
- ^ Joan M. Marter, The Grove Encyclopedia of American Art, Volume 1, Oxford University Press, 2011 Archived 2020-02-09 at the Wayback Machine., p. 6, ISBN 0195335791
- ^ a b 池田誠「風博士におけるナンセンスとダダとの関係」武蔵大学人文学会雑誌32巻1号(2006)
- ^ 辻潤年譜
- ^ 吉行和子「吉行エイスケ 作品と世界」国書刊行会,1997年、吉行淳之介『詩とダダと私と』作品社、1997年
- ^ 高橋新吉
- ^ 日本においてダダはシュルレアリスムよりもインパクトが強かったため、ヨーロッパにおけるようなダダからシュルレアリスムへの芸術運動のシフトが行われずに、強い影響力を持った。
ダダイスム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/18 05:08 UTC 版)
「ピエール・ルヴェルディ」の記事における「ダダイスム」の解説
1916年に詩人、画家、彫刻家のピエール・アルベール=ビロ(フランス語版)が創刊した『SIC(フランス語版)』(Sons (音)、Idees (思想)、Couleurs (色彩) の頭文字をつなげた誌名)もこの頃には、『南北』誌と並んで前衛芸術・文学作品を次々と掲載するようになり、特に1918年にアラゴン、スーポー、ツァラ、ジャン・コクトー、フランシス・ピカビアらダダイストが活動の場とし、ルヴェルディも1918年10月から翌1919年10月まで随筆、詩、小説(連載)をしている。1919年2月にブルトン、アラゴン、スーポーによって『リテラチュール(文学)』誌が創刊された。創刊号には3人のほか、ルヴェルディ、アンドレ・ジッド、ポール・ヴァレリー、レオン=ポール・ファルグ、アンドレ・サルモン、マックス・ジャコブ、ブレーズ・サンドラール、ジャン・ポーランが名を連ねているが、まもなくポール・エリュアール、次いでルネ・クルヴェル、ロベール・デスノスが参加。翌1920年1月にチューリッヒからパリに活動拠点を移したツァラらダダイストが参加し、ダダの機関誌とみなされるようになった。ルヴェルディは創刊号に「白紙委任状」と題する記事を掲載しているが、これは、当初彼がブルトンに誌名として提案したものでもあり、既成の秩序の否定・破壊し、既存の文学を文字通り「白紙」に戻すことで新しい表現を生み出そうとするダダイスムの思想を象徴する概念であり、これに対して、「リテラチュール(文学)」という誌名は、このような文学の白紙化をアイロニーとして表現したものとなっている。だが、早くも1921年にはツァラとブルトンの対立が露わになり、『コメディア(フランス語版)』紙上で激しい論争を展開。ダダイスム運動の内部でもツァラ派とブルトン派が衝突する事件が重なった。この結果、『リテラチュール』誌は1921年8月に13号をもっていったん終刊となり、1922年3月に再刊。1924年6月まではブルトンが一人で主筆を務め、彼の友人であるピカビア、ピカソ、マルセル・デュシャン、マン・レイらの作品が表紙を飾るようになった。
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ダダイスム
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1921年に徴兵され、服役中に作家マルセル・アルラン、ジャック・バロン(フランス語版)、マックス・モリーズ(フランス語版)、ジョルジュ・ランブール(フランス語版)、ロジェ・ヴィトラック(フランス語版)と出会い、月刊雑誌『アヴァンチュール(Aventure、冒険)』を創刊し、主幹を務めた。わずか3号で翌1922年に終刊となったが、アンドレ・ブルトン、ルイ・アラゴン、トリスタン・ツァラ、ジャン・コクトーらも寄稿した。 フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。Aventure クルヴェルは引き続きブルトン、ツァラを中心とするダダイスムの運動に参加した。後にシュルレアリスムの運動を率いることになるブルトンらはすでに1919年にこの運動の最初の試みである自動記述を行い、この結果をブルトン、アラゴン、スーポーが創刊した「反文学」の文学雑誌『リテラチュール(文学)』に「磁場」として発表していた。1922年9月にクルヴェルはシュルレアリスムのもう一つの重要な試みである催眠実験を提案した。クルヴェルのほか、バンジャマン・ペレとロベール・デスノスが被験者になり、他の参加者(ブルトン、ポール・エリュアール、マックス・エルンスト、マックス・モリーズ、フランシス・ピカビア)が催眠状態にある彼らに質問した。クルヴェルの回答は口頭弁論のようなものであった。目覚めたとき、クルヴェルは語ったことについて何も覚えていなかった。テーブルをひっかくようなしぐさをしたことを指摘すると、書きたい気持ちの現れかもしれないと言った。この催眠実験は「霊媒の登場」として『リテラチュール』誌第2シリーズ第6号(1922年11月)に掲載された。だが、この後、催眠実験を繰り返しているうちに、クルヴェルは催眠状態で自殺を企てるようになり、デスノスはナイフを持って参加者に襲いかかるなど自他ともに危険な状況になり、実験を打ち切らざるを得なくなった。 一方、すでに1921年頃からダダイスムの運動内部においてブルトンとツァラの対立が露わになっていた。クルヴェルはピエール・ド・マッソ(フランス語版)らとともにむしろツァラ派であった。決裂が決定的なものとなったのは、1923年7月6日にミシェル劇場で行われた「髭の生えた心臓の夕べ」においてであった。ツァラの演劇『ガス心臓』が上演されたこの夕べには、ブルトン派(エリュアール、アラゴン、ペレ、デスノス)も参加していた。第1部の最後にマッソが既存の文学・芸術的価値をすべて破壊するという趣旨の宣言を読み上げた。ところが、マッソが「ジッドは死んだ、ピカソは死んだ」という箇所を読んだとき、ピカソの友人のピカソを侮辱したことに腹を立てたブルトンが舞台に飛び上がってマッソに殴りかかった。エリュアールはツァラとクルヴェルに平手打ちを食らわせた。挙句は警察を呼ぶ騒ぎになり、パリ警視庁の命令で第2部の上演は取り消しとなった。ダダイスムもシュルレアリスムも既存の秩序や価値を破壊するという点では共通する運動であったが、根本的に、すべてを無意味とするダダイストと、従来無意味とされてきた無意識や夢に新たな価値を見出し、これを表現しようとしたシュルレアリストは思想的に対立し、以後、ダダと決裂したシュルレアリストの活動が本格的に開始されることになった。 ツァラ派であったクルヴェルは、1924年のブルトンの「シュルレアリスム宣言」および機関誌『シュルレアリスム革命』の創刊には参加せず、それどころか、シュルレアリスム宣言の2週間前に、チューリッヒでツァラと親しかった詩人イヴァン・ゴル(フランス語版)が創刊した『シュルレアリスム』誌に参加してブルトンとの対立を際立たせることになった。『シュルレアリスム』誌創刊号には、ギヨーム・アポリネール、マルセル・アルラン、ピエール・アルベール=ビロ(フランス語版)、ピエール・ルヴェルディ、ポール・デルメ(フランス語版)のほか、キュビスムの画家ロベール・ドローネーらも寄稿していたが、「シュルレアリスム」という言葉の使用をめぐってブルトンとゴルの間に対立が生じ、結局、ゴルは『シュルレアリスム』誌を撤回せざるを得なくなった。 フランス語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。Le Disque Vert クルヴェルは以後、文芸雑誌ヌーヴェル・リテラチュール(フランス語版)の編集事務局を務め、『ディスク・ヴェール(Le Disque vert、緑の円盤)』誌(1922年創刊、1955年終刊)、『フイユ・リーブル(Les Feuilles libres、ルーズリーフ)』誌(1918-1928)、『欧州評論(La Revue européenne)』誌(第1シリーズ:1923-1926)、『モンパルナス(Montparnasse)』誌(1922-1926)などに詩や評論を寄稿した。評論は「マックス・ジャコブの日常的神秘性」、「ありがとう、ジョルジョ・デ・キリコ」、「衛生学的錬金術のフロイト」(いずれも『ディスク・ヴェール』誌掲載)など、シュルレアリストと思想的基盤を共有するものであった。
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ダダイスム
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1919年6月に復員し、医学の勉強を再開。ラリボワジエール病院(フランス語版)で研修医を務めた。一方、1918年12月に『ダダ3』誌にダダ宣言が掲載された後、1919年3月にブルトン、スーポーとともに『リテラチュール』を創刊した。創刊号には、ルヴェルディ、アンドレ・ジッド、ポール・ヴァレリー、レオン=ポール・ファルグ、アンドレ・サルモン(フランス語版)、マックス・ジャコブ、ブレーズ・サンドラール、ジャン・ポーランが寄稿したが、1920年には既成の秩序の否定・破壊を目指すダダの宣言文が次々と掲載され、アラゴンもまた同年3月に最初のダダ宣言を発表するほか、ブルトンを中心に即興劇など挑発的・反芸術的な活動を企画した。 アラゴンは後にフランス共産党に入党することになるが、すでに1921年にフランス社会党(SFIO)から分裂して結成されたときに、反戦を掲げる唯一の政党であるという理由でブルトンとともに入党しようとした。だが、このときは、運営委員会で代理を務めていたジョルジュ・ピオク(フランス語版)に失望して断念したと、後に『ドミニック・アルバンとの対談』で語っている。 1921年には早くもトリスタン・ツァラとブルトンの対立が露わになった。同年の春に行った即興劇「バレス裁判」は、極右的な政治思想に傾倒したモーリス・バレスに対する批判として、彼を裁判にかけるという設定であった。裁判長役はブルトン、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ(フランス語版)が原告、アラゴンとスーポーが弁護士、バンジャマン・ペレがドイツ語を話すフランス兵の証人を演じた。観客も証人や陪審員として参加し、懲役20年の判決が下されたが、この劇でツァラは証人として登場し、ブルトンをバレス並みの卑劣漢扱いをした。同様に、ブルトンが「現代精神の擁護」のための国際会議を招集したときにも、ツァラはこれを伝統への回帰だとして参加を拒否した。この結果、ペレ、エリュアール、後にジャン・コクトーらもツァラを支持したが、アラゴンはブルトンを支持し、『リテラチュール』誌はダダと縁を切ることになった。これはすべてを破壊し、無意味化するダダイスムと、無意味や無意識を重視し、そこに新しい表現を見出そうとするシュルレアリスムの根本的な違いであった。 さらに、1923年7月6日にミシェル劇場で行われた「髭の生えた心臓の夕べ」はダダイスムの終焉を告げる事件となった。ブルトン、アラゴン、ペレらが参加したこの企画で、ダダイストのピエール・ド・マッソ(フランス語版)が「ジッドは死んだ、ピカソは死んだ」と宣言文を読み上げたとき、友人のピカソを侮辱したことに腹を立てたブルトンらが舞台に飛び上がってマッソンに殴りかかり、警察を呼ぶ騒ぎになった。既成の秩序の破壊を唱えるダダが、最後に秩序の維持にあたる公権力に訴えたのは決定的であった。
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ダダイスム
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「フィリップ・スーポー」の記事における「ダダイスム」の解説
この頃、チューリッヒでは1916年2月に詩人のフーゴー・バルがキャバレー・ヴォルテールを開店し、トリスタン・ツァラ、ジャン・アルプら亡命作家・画家を中心としたダダイスムの活動拠点となった。1917年7月にツァラが『ダダ I』誌を刊行したときには、アルベール=ビロが『SIC』誌でいち早くこの運動を取り上げ、これを知ったツァラが「黒人芸術に関する覚え書き6」と題する記事をアルベール=ビロに送り、『SIC』誌1917年9月・10月合併号に掲載された。ツァラはルヴェルディの『南北』誌にも詩「わが心の闇の大いなる嘆き歌」を送り、これは同誌1917年6月・7月合併号に掲載された。スーポーは早速、アドリエンヌ・モニエの書店「本の友の家」で『ダダ I』誌を入手した。また、1917年9月からアラゴンもアドリエンヌ・モニエの書店に出入りするようになり、スーポーはブルトンを介してアラゴンに紹介された。これ以後、3人は同じ関心を抱き、活動を共にすることになる。3人の共通点は医学であった。ブルトンもアラゴンも医学を専攻し、スーポーは医師の息子であったからである。だが、それ以上に3人を結びつけたのは、ブルジョワ社会の道徳・秩序をはじめとする既成の価値に対する不信感や、道徳、宗教、文学における権威に対する反逆心、むしろ反道徳、反宗教、反文学の精神であった。 スーポーはすでに、夢を見ると必ずすぐに書き付ける習慣があったし、「叙事詩は映画によって表現されるようになる」というアポリネールの言葉に触発されて、現実離れしたイマージュをカメラで追うような「映画詩」を書き始めていた。特にこの頃は、チャールズ・チャップリンの『担へ銃』(1918年)などが公開され、モンマルトルでジャズクラブが流行するなど米国の文化が紹介された時期でもあり、スーポーはこうした影響を受けて、1918年10月の『南北』誌に「ラグタイム」と題する詩を発表している。この詩は堀辰雄が邦訳し、1929年の『文芸レビュー』第1巻第7号に掲載している。 スーポーにとってこうした試みの指針となったのは、無名のまま没した詩人ロートレアモンの『マルドロールの歌』であった。彼はこの詩集をブルトンとアラゴンに紹介した。『マルドロールの歌』は二人にとっても詩作の方向性を決定づけるものとなり、既存の雑誌に作品を発表するより、むしろまったく新しい雑誌を作る必要があると感じた。こうして、1919年3月にスーポー、アラゴン、ブルトンによって『リテラチュール(文学)』誌が創刊された。当初、アラゴン、ルヴェルディ、マックス・ジャコブはそれぞれ「新世界」、「鉄筋コンクリート」、「白紙委任状」という誌名を提案していたが、ポール・ヴァレリーに相談し、彼の提案による「文学」が採用された。ただし、この誌名は一種のアイロニーであり、実際には反文学を目指す前衛雑誌である。創刊号にはルヴェルディ、ヴァレリー、アンドレ・ジッド、レオン=ポール・ファルグ、アンドレ・サルモン(フランス語版)、マックス・ジャコブ、ブレーズ・サンドラール、ジャン・ポーランが寄稿し、第3号からポール・エリュアール、第4号からピエール・ドリュ・ラ・ロシェルとレイモン・ラディゲ、第5号からツァラが参加した。また、ロートレアモン、ランボー、シャルル・クロなどの詩を紹介している。スーポーは第4号から演劇、映画などを紹介する文化欄を担当し、チャップリンの映画『犬の生活』、アポリネールの演劇『ティレジアスの乳房』などについて詩的な評論を書いている。さらに、第7号には代表作「他の場所で(アイユール)」などの詩を掲載するほか、1919年10月の第8号から12月の第10号までブルトンと共同で「磁場」を発表した。同誌はやがてダダイスムの機関誌とみなされるようになるが、「磁場」は自動記述の試みであり、ダダイスムを批判的に受け継ぐシュルレアリスムの最初の作品として重要である。フロイトの自由連想法の影響を受けた自動記述は、理性に制御されない純粋な思考を表現しようとする試みであり、このために、できるだけ無意識に近い状態で浮かんでくる言葉を書き付けて行き、次第にその速度を上げることで、主語(主体性)が排除され、内容も前後の脈絡のない抽象的な言葉やイマージュの連続になる。スーポーとブルトンはこの実験を毎日8時間から10時間にわたって行った。 『リテラチュール』誌に連載された「磁場」は翌1920年にオ・サン・パレイユ(フランス語版) (同じ意味で) 社から出版された。オ・サン・パレイユ社は、1919年に(後に共産党の出版社の編集長を務めた)ルネ・イルソムが『リテラチュール』誌の活動を支援するために創設した最初のシュルレアリスムの出版社であり、1935年に廃業するまでの約15年間に、ブルトン、スーポー、アラゴン、エリュアール、サンドラール、マックス・ジャコブらの著書を出版した。スーポーの著書では、『磁場』のほか、『リテラチュール』誌に掲載された「他の場所で(アイユール)」、「対蹠地」、「ラグタイム」、「登攀」を含む詩集『風の薔薇』が1919年に同社から出版されている。これらの詩はいずれも邦訳されている(邦訳参照)。なお、スーポーはこの頃すでに石油・ガソリン監視局に職を得ていたため、自著だけでなく雑誌の出版のための費用もかなりの程度負担することができた。また、職を得たことでスーポー家の家族会も文学活動を大目に見て、経済的に支援した。
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ダダイスム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/30 19:18 UTC 版)
反芸術は、第一次世界大戦中からはじまったダダイスムにその端を発する。反芸術的な作品の、初期にしてもっとも有名な例は、ダダイストのマルセル・デュシャンが1917年にニューヨークの無審査公募展・「アンデパンダン展」にリチャード・マット名義で出展した『泉』である。この作品はただの既製品の男性用小便器を寝かせたもので当時の観念から見ればどう見ても芸術品とも作品とも呼べるものではなく、無審査展のため仕方なく受け付けられたものの会場に展示されることなく紛失するが、この処置に抗議したデュシャンはアンデパンダン展委員を辞任し、新聞にリチャード・マットの作品を弁護しその意義を訴える文章を発表し大論争を起こした。この事件の例のように、ダダイスムの活動は美術や文学など既存の芸術をはみ出すもので、結果、芸術の概念を非常に大きく広げることとなった。
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ダダイスム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/23 05:59 UTC 版)
最初に詩を発表したのは19歳のときで、「黄昏」という詩が『トラモンターヌ』という文芸誌に掲載された。アンドレ・ブルトンとの出会いのきっかけは、1920年にペレの母が、息子は作家に向いていると考えてブルトンに連絡を取ったからである。トリスタン・ツァラはすでに前年に渡仏し、パリで活動していた。1919年3月にはブルトン、ルイ・アラゴン、フィリップ・スーポーが『リテラチュール (文学)』を創刊した。この文芸誌は、創刊号にキュビスムの理論家ピエール・ルヴェルディのほか、アンドレ・ジッド、ポール・ヴァレリー、レオン=ポール・ファルグ、アンドレ・サルモン(フランス語版)、マックス・ジャコブ、ブレーズ・サンドラール、ジャン・ポーランが寄稿するなど、ダダイスムの雑誌として創刊されたわけではないが、1920年に入るとダダ宣言が次々と掲載された。だが、翌年には早くもツァラとブルトンの対立が露わになり、他のダダイストを巻き込んで相互の溝を深めていった。同年の春に上演された即興劇「バレス裁判(フランス語版)」は、かつてアナキスト・耽美主義者として青年知識人に深甚な影響を与えた文学者モーリス・バレスが極右的な政治思想に傾倒したことを批判するものであり、裁判長役はブルトン、ジョルジュ・リブモン=デセーニュ(フランス語版)が原告、アラゴンとスーポーが弁護士、ペレはドイツ語を話すフランス兵の証人を演じた。この劇で証人として登場したツァラは観客の前でブルトンをバレス並みの卑劣漢扱いをした。この対立は、1922年1月にブルトンが呼びかけた「現代精神の綱領決定と擁護のための」パリ会議をツァラが伝統への回帰だと批判したこと、同年3月にブルトンが『コメディア(フランス語版)』紙に「ダダ以後」と題する記事を発表してツァラを中心とするダダイスムをすでに時代遅れであると批判したこと、さらにツァラがこれに対する応酬として『髭の生えた心臓』紙を創刊したこと、最後に、この新聞の寄稿者が企画した「髭の生えた心臓の夕べ」でツァラ派とブルトン派の対立から乱闘が起こり、警察を呼ぶ騒ぎになったことなどから、ダダイスムは終焉を告げることになった。ペレは『髭の生えた心臓』紙の創刊号(かつ最終号)に参加したツァラ派であったが、「髭の生えた心臓の夕べ」では、アラゴンらとともに会場から追い出された。これ以後は、ブルトンを中心とするシュルレアリスムの活動、特に自動記述、夢の記述、催眠実験などその主な活動に最も積極的に参加することになる。 こうした経緯から、『リテラチュール』誌もダダと縁を切ることになった。1921年8月にいったん終刊となり、翌22年の5月に再出発した。1924年6月に廃刊となるまでブルトンが主筆を務め、ペレは同年10月号に「ダダは死んだ」という言葉で始まる散文詩「私の目を通して」を掲載した。この詩ではかつてのダダイストについて、「リヴェルディは錆びたナット、ジャン・コクトーは天使の糞、レイモン・ラディゲは天使の糞掻きベラ、マックス・ジャコブはキリストの心臓、トリスタン・ツァラはダダ、マン・レイは網膜の毛、リブモン=デセーニュは神の15分」と表現し、「ギヨーム・アポリネールとマルセル・デュシャンが待っている。私はダダの眼鏡を外して、いざ、出発だ」と語っている。 なお、この間、1921年に最初の詩集『大西洋航路横断客船の乗客』が刊行された。ブルトンとスーポーの自動記述の試み『磁場』が書かれた2年後(刊行の翌年)のことであり、『大西洋航路横断客船の乗客』も『磁場』も同じオ・サン・パレイユ(フランス語版) (同じ意味で) 社から刊行されたが、この出版社は、1919年に(後に共産党の出版社の編集長を務めた)ルネ・イルソムによって創設された最初のシュルレアリスムの出版社(1936年廃業)であり、『大西洋航路横断客船の乗客』はダダ叢書としての刊行であった。この詩集の表紙画はジャン・アルプが描いている。次作のコント(短い物語)集『サン=ジェルマン大通り一二五番地で』(1923年)と代表作の詩集『不死の病』はシュルリアリスムの作品集であり、いずれも『リテラチュール』誌叢書として出版された。『不死の病』の扉にはマン・レイの写真が掲載されている。これ以後の作品集もシュルレアリスムの画家(特にイヴ・タンギー、ジョアン・ミロ、マックス・エルンスト)や写真家(特にマン・レイ)との共作である。
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ダダイスム
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「ゾフィー・トイバー=アルプ」の記事における「ダダイスム」の解説
1915年にタナーギャラリーの展覧会で彼女はダダイスムのアーティスト、ジャン・アルプと出会った。それ以降2人は、1943年に彼女が死去するまで協力して多くの作品を残した。2人は1922年に結婚し、彼女は姓を「トイバー=アルプ」と変更した。 トイバー=アルプは Zurich Kunstgewerbeschule (現在のチューリッヒ芸術大学)で1916年から1929年まで織物やその他のテキスタイルアートについて講義を行った。彼女の1916年頃から1920年代にかけてのテキスタイルおよびグラフィック作品は、ピエト・モンドリアンやカジミール・マレーヴィチらの作品と並ぶ最古の構成主義作品である。これらの洗練された幾何学の抽象概念は、色と形の間の相互作用の微妙な理解を反映する。 この期間に彼女は、キャバレー・ヴォルテールを中心としたチューリッヒ・ダダムーブメントに関わることとなった。彼女はダダイスムにインスパイアされたパフォーマンスにダンサー、振り付け師、人形使いとして加わり、キャバレー・ヴォルテールだけでなく他のスイスやフランスの劇場でも人形、衣装およびセットをデザインした。1917年のギャラリー・ダダの開場公演で、彼女はフーゴ・バルの詩にマルセル・ヤンコ(英語版)のシャーマニズム的なマスクを被って踊った。1年後、彼女はトリスタン・ツァラらと共にチューリッヒダダイスム宣言を発表した。 彼女はまた、クロムメッキした木製の「"Dada Heads"」のような抽象的な多くの彫刻作品も製作した。
※この「ダダイスム」の解説は、「ゾフィー・トイバー=アルプ」の解説の一部です。
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ダダイスムと同じ種類の言葉
固有名詞の分類
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