ローマ‐びじゅつ【ローマ美術】
ローマ美術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/29 17:33 UTC 版)
ローマ美術(ローマびじゅつ)とは、古代ローマ帝国の美術であり、時間的には共和制末期とコンスタンティヌス1世以前の帝政期の美術を指す。空間的には地中海地域(アフリカ北岸も含む)とライン以西の欧州、ユーフラテス以西の近東地域での美術である。
ローマ帝国の主流となった美術は、作者が主としてギリシャ人であったので、ヘレニズム美術の延長となった。彫刻と絵画の領域では、古典期~ヘレニズム期のギリシャ美術を古典・典範とする見方が主流であり、模倣的な傾向が強い。
- ^ a b Janson, p. 160
- ^ a b Janson, p. 165
- ^ Janson, p. 159
- ^ a b Janson, p. 162
- ^ Janson, p. 167
- ^ Piper, p. 256
- ^ Piper, p. 260
- ^ Piper, p. 252
- ^ a b c Janson, p. 190
- ^ a b c Piper, p. 253
- ^ Janson, p. 191
- ^ プラトン クリティアス (107b-107c)のW. R. M. Lamb による英訳(1925年)at the Perseus Project(2009年4月28日閲覧)の本記事翻訳者による和訳。
- ^ Janson, p. 192
- ^ John Hope-Hennessy, The Portrait in the Renaissance, Bollingen Foundation, New York, 1966, pp. 71-72
- ^ Janson, p. 194
- ^ Janson, p. 195
- ^ Pliny, Natural History online at the Perseus Project
- ^ ヨセフス『ユダヤ戦記』7巻、143-152(5章5節)のWilliam Whistonによる英訳Online(2009年4月28日閲覧)の本記事翻訳者による和訳。
- 1 ローマ美術とは
- 2 ローマ美術の概要
- 3 絵画
- 4 工芸
ローマ美術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 18:17 UTC 版)
詳細は「エトルリア美術」および「ローマ美術」を参照 一方、イタリア中部に定着したエトルリア人は、ギリシア美術の影響を受けつつも、独自の宗教観や社会制度を背景に独特の美術文化を形成した。一般にエトルリア美術は東方化様式期、アルカイック期、古典期(中間期)、ヘレニズム期の4つに分類されるが、もっとも繁栄を見たのが紀元前6世紀初頭から紀元前5世紀前半にかけてのアルカイック期130年間である。 都市や建築の遺構は少ないが、ギリシア美術で頻繁にモチーフとされた神話を描いた陶器などが出土している他、墓室壁画においては葬儀宴会、舞踏、競技、狩猟など日常生活に密着したモチーフが好んで選択されており、エトルリア人独自の来世観を保持していたことが伺える。紀元前7世紀から顕現したこうした兆候はヘレニズム期まで継続していた。彫刻分野も遺例が少ないものの、紀元前6世紀末に活躍したウルカ(英語版)はエトルリア人彫刻家として名が知られている特筆すべき人物で、ヴェイオから出土した「アポロン」など、イオニア彫刻の影響を強く受けたテラコッタ像を制作している。 紀元前5世紀初頭の古典期に突入すると政治、経済の衰退と共に美術的活動も新鮮味と活力が失われ、様式的にも停滞した。しかし、ヘレニズム期に入ると来世観に進展が見られ、ウァント(英語版)やカルン(英語版)といった魔神が墓室壁画のモチーフとして選択されることが多くなった。肖像彫刻においては写実性溢れる作品が好んで制作されるようになった。 紀元前509年、エトルリアに従属していた都市国家のひとつであったローマは、共和制を樹立し、周辺都市国家を征服しつつ紀元前4世紀にはエトルリアをもその支配下に置いた。その過程でエトルリア美術の影響は次第に薄れてはいったが、独自の美術を生み出すには至っていなかった。 紀元前3世紀に入るとサムニウム戦争や第一次ポエニ戦争などの影響により、戦利品として南イタリアのギリシア植民都市から大量の美術品が持ち込まれると、その成熟された美しさに魅了され、第二次ポエニ戦争以降、ローマ下においてギリシア美術ブームが起こった。これによりローマでは従来の伝統的なエトルリア美術と、「外来」のギリシア美術がそれぞれ潮流を成し、社会に氾濫することとなった。ローマ人の需要に応えるべく、創造性には欠けるが様々な様式の彫刻を注文に合わせて制作するネオ・アッテカ派(英語版)と呼ばれる一派が形成され、アウグストゥスの庇護を受けて伸張した。この影響で「アウグストゥスの平和の祭壇」や「プリマポルタのアウグストゥス」といった高度な写実性を有する、洗練された古典主義的な美術品が数多く制作されている。 建築分野では紀元前1世紀前半ごろより、ヘレニズム期のエトルリア美術を基盤としてローマ固有の建築様式を生み出していった。厳格な左右対称性やコリントス式柱頭の多用、内部空間の重視などがローマ建築の特徴として挙げられる。紀元前2世紀前半に建設されたバシリカや紀元前1世紀前半に建築されたコロッセウムなどは、新しい建築ジャンルとしてローマ美術における代表的な建造物としてしばしば取り上げられる。 また、建造物の壁面に描かれた装飾物についてもヘレニズム期の影響を受けるポンペイ第一様式からポンペイ第二様式と呼ばれる装飾法へ移行を果たし、神話的風景画などがさかんに制作された。帝政期に入ると歴代皇帝の事跡を誇示するかのような歴史浮彫が多数制作され、現代ではトラヤヌス帝の記念柱やコンスタンティヌス帝の凱旋門などがその遺構として知られている。 同時に神話的な情景を主たるモチーフとしていた古典主義は衰退し、現実の情景を記した写実主義がもてはやされるようになった。さらに、2世紀中ごろからは主要人物をより強調して表現する傾向が顕著となり、その影響は肖像彫刻などの他ジャンルへも波及した。こうした自然主義の放棄と表現主義の台頭という変遷は、この後のローマ美術がキリスト教美術へと変質化していく過程における重要な転換点として挙げられる。
※この「ローマ美術」の解説は、「西洋美術史」の解説の一部です。
「ローマ美術」を含む「西洋美術史」の記事については、「西洋美術史」の概要を参照ください。
- ローマ美術のページへのリンク