ローマ篇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/30 14:42 UTC 版)
「アーサーの甥、ガウェインの成長記」の記事における「ローマ篇」の解説
7年後、ウィアムンドゥスは「少年」をローマで扶養することにし、ローマへ向かった。「少年」とともに着服した財宝は、それまで使う勇気がなかったが、このときとばかりと奮起して、それをつかって相応の身なりとお供をととのえ、ガリアの貴族を騙った。そしてみごとローマ帝国にとりいり、軍人として栄達、さらには皇帝と教皇の友人となった。のち、少年が12歳の時ウィアムンドゥスは重病にかかってしまう。死の淵でウィアムンドゥスは皇帝に「少年」の指輪と手紙を渡し、「少年」の出生を説明すると、皇帝はいつの日か少年を彼の叔父であるブリタニアのアーサーに送ることを約束するのだった。これ以降、皇帝が少年の養父となることになる。 従者として皇帝に仕える少年だが、非凡な才能を発揮し、15歳の時には騎士に叙任。そして大競技場(キルクス)で開催された模擬試合で優勝者となった。少年は鎧の上に赤い上着(トゥニカ)を羽織って着たため、「陣羽織の騎士」(羅 Miles cum tunica armature; 英 Knight of the Surcoat)と呼ばれることになる。このイベントは、軍神マルスに捧ぐ年次恒例の(2回の)競馬祭《エクイリア(英語版)》であった。その式典で、皇帝は優勝者に望みの褒美をとらせようとしたが、<もし次の機会に、ローマ帝国の敵国の勇士が一騎討ちの決闘試合を申し込んだらば、自分をローマの代表戦士に任じてもらいたい>、とだけ所望した。やがてその願いは叶い、ペルシアの騎士と決闘のため、陣羽織はエルサレムへ向かい出発する。 陣羽織を乗せた船団(軍船が商船やキリスト教徒の巡礼船をひきつれて航行)は、暴風や荒波に遭い、エーゲ海のある島に不時着することになった。この島の住民は、身長3キュービットに満たない小人で野卑な性格だった。その島を統治するのは、異教徒に与するミロクラテス王(仮称「海賊王」)だった。幸運なことに、海賊王はローマ皇帝の姪を無理やり捕えて「妃」としていたが、彼女は当然ながら皇帝の騎士である陣羽織に救出されることを求め、協力を惜しまなかった。「妃」は、ミロクラテスの持ち物である「王の剣」と「黄金の鎧」を陣羽織に授ける。じつは、これらの品は、王以外の者がもし着用すれば、その者が王に勝利し、王権を剥奪する、という呪いがかかったいわくつきのものであったのだ。「妃」らの協力を得て、ローマ人の兵士らはミロクラテスの城壁のなかに突入し、陣羽織の騎士もミロクラテスを討ち取った。 ローマ人たちは、しばらく島に逗留した後、出向するが、ミロクラテスの兄弟ブザファルナン(Buzafarnan)が率いる船団(「海賊軍」)と鉢合わせする。ブザファルナンは、エゲサリウス Egesarius つまり「王のアイギス盾持ち」という肩書でも呼ばれており、ミロクラテスの応援に向かっていたが、間に合わなかったのだ。その海戦では、敵軍は、ギリシア火薬という火炎放射器のような中世の武器まで使ってきたが、それでも陣羽織らローマ軍は勝利を手にした。 やがてエルサレムに到着したローマ軍。かねての取り決めのとおり、ここで陣羽織の騎士は、ペルシア軍の代表騎士ゴルムンドゥス(Gormundus)という大男と決闘することになった。勝負はなかなか決着がつかず、3日間において繰り広げられた。1日目、陣羽織は膝を狙うと思いきや、右手を返すフェイント攻撃をかまし、相手の歯を折り左顎を砕いた。しかしそれは相手を奮起させるだけだった。2日目は、相手の盾を粉砕するも、自分の剣は折れてしまうという絶体絶命な状況になったが、幸いに試合終了の(毎日、影が伸びて印したところに届くとそこで終了という決まりだった)。3日目、前日の盾なし対剣なしの状況で再開するかどうかでローマ軍とペルシア軍の口論になったが、結局、それぞれが替えの盾と剣を与えられて再試合した。ペルシア騎士は及び腰になっていたが、罵声を浴びて立ち戻る。陣羽織の騎士は、頭上から剣撃を受けて膝をつくが、飛び上がって逆に相手に兜割の一撃をあびせ、諸刃の剣は、胸骨に達した。この勝利により、ペルシア軍はエルサレムから撤退することとなり、陣羽織の騎士の名誉はローマ帝国中に鳴り響いた。
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