ローマ移住
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/08 08:54 UTC 版)
「マヌエル・パレオロゴス」の記事における「ローマ移住」の解説
1462年8月に母カテリーナ・ザッカリアが死去し、その後に父ソマスからローマに呼び寄せられたにもかかわらず、マヌエルと兄アンドレアスはそれに応じなかった。彼らが1465年にようやくローマに向かった時、ソマスはすでに死の数日前という状況であった。兄弟と姉ゾイはローマに向かったものの、父ソマスはすでに死去していた。この時マヌエルは10歳、アンドレアスは12歳だった。3人の兄弟はビザンツ帝国出身のヨハンネス・ベッサリオン枢機卿のもとに身を寄せた。ベッサリオンは彼らを教育し、1472年6月のゾイとモスクワ大公イヴァン3世の結婚を取り持った。アンドレアスをモレアス専制公の正統な後継者とみなしていた教皇は、アンドレアスとマヌエルの兄弟をローマに留め置いた。 彼らの父ソマスは、教皇から月300ドゥカート、枢機卿たちから月200ドゥカート、計月500ドゥカートを支援されていたが、それでも彼の側近の一人は、ソマスの邸宅と従者たちを維持するには足りないと不満を書き残している。ソマスの死後、アンドレアスとマヌエルは教皇からの300ドゥカート、一人当たり150ドゥカートしか受け取れなくなり、経済的に苦しい状況に置かれた。兄アンドレアスは自身のビザンツ皇帝位請求権の売却をヨーロッパ諸国の君主に打診し、資金を集めようとした。しかし弟であるマヌエルには、そのような売れる請求権すら無かった。
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