ギリシア美術
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ギリシア美術(ギリシアびじゅつ)は、現在のギリシャ共和国を含むバルカン半島、アナトリア半島などの古代・中世のギリシア人居住地域を中心に発展した美術および、現在のギリシャ共和国の美術。単に「ギリシア美術」といった場合は、古代ギリシア時代の美術を指すことが多い[1]。
古代ギリシア美術

古代ギリシアの哲学者達は、美術を「熟練した洞察力と直感を用いた美的な成り行き」として定義している。そこで、絶対的な美の基本は見るものをどれくらい感動させられるか、という点にある。その結果、ギリシアの芸術作品は、完璧な美を備えている神々の姿をとった彫刻が多い。紀元前11世紀頃にエジプト文明の影響を受けて誕生し、西洋絵画のルーツとされている[2]。
ギリシア彫刻の発展は紀元前7世紀以降のアルカイック期、クラシック(古典)期、ヘレニズム期に分けられる。アルカイック初期の彫刻には、独特な微笑と、両手を腿に当てた直立したほぼ左右対称的な彫刻(クロイソスのクーロス像など)があり、エジプトのファラオ像の影響が見られる。これらの特徴は次第に消えていき、クラシック期には、自然主義的で理想の人体美を追求し、動作に富む非対称で写実的な彫刻が創られ、ヘレニズム期には、より激しい動きの構図と感情表現が加えられるようになった[3]。後期には顔の表情があまり表れなくなるが、これは当時の考えであった、「人間的感情を公で出すのは野蛮である」に基づくものである。
これら古代ギリシアの美術は、ローマ美術やオリエントの美術に大きな影響を与え、またオリエントの美術の影響も受けている。
ビザンティン美術
中世になると古代ギリシア文明の栄えていた地域は東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国という)の領土となり、古代ギリシアの美術にキリスト教(正教会)、オリエントの影響を受けたビザンティン美術が発展した。ビザンティン美術の高度なモザイク技術や建築、イコンなどは東ヨーロッパの正教圏、西欧の美術にも大きな影響を与えた。特に8世紀の偶像禁止令以降、イコンは抽象化が進んだが、ビザンツ帝国衰退後はモザイク画に代わってフレスコ画が主流となる[4]。
近現代ギリシア美術
脚註
関連項目
外部リンク
- アテネ国立考古学博物館公式サイト(希語)
- 新アクロポリス博物館公式サイト(英語)
- ルーブル美術館公式サイト(仏語)
- バチカン美術館公式サイト(英語)
ギリシア美術
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詳細は「ギリシア美術」を参照 アーサー・エヴァンズのクノッソス発掘によって、地中海域で最初に開花したとされるクレタ美術(ミノス美術(英語版))の解明がなされた。新石器時代末期から青銅器時代初頭にかけて、キュクラデス諸島などで人体の特徴を簡潔に捉えた石偶や彩色土器、金属器などが制作されている。旧宮殿時代に入ると農業と海上貿易によって都市は経済的に大きく発展し、マリア、クノッソス、アヤ・トリアダなど各地に荘厳な宮殿が造営された。工芸品も数多く制作され、カマレス陶器のような豪華なものも出現している。 紀元前1700年頃に発生した大地震により一時は壊滅の危機に陥るが、新宮殿時代に入るとより複雑で豪華な装飾を持つ宮殿や離宮が建立された。自然と人類を見事に調和させ、自由闊達に描いた壁画が残されており、こうした作風はペロポネソス半島で隆昌したミュケナイ美術へ受容、継承された。紀元前1400年頃に入ってミュケナイ人がクレタ島を征服すると、ミュケナイ美術は最盛期を迎え、後のギリシア建築に大きな影響を与える建造物が複数建築された。ミュケナイ美術は時代を経るに従って豊かな自然主義的作品から簡素化された装飾モチーフを用いた形式主義的作品へと変遷しており、その理由については明らかになっていない。その後、紀元前12世紀頃のドーリス人大移動を境に衰退期へと移行し、ミュケナイ美術はその幕を閉じることとなった。 紀元前11世紀中ごろ、アテネのケラメイコスからミュケナイ陶器とは異なる特徴を持った陶器が出現した。黒線や水平帯によって区分した装飾帯に波状線や同心円文を配した構築的な装飾を持ったこれらの様式は原幾何学様式と呼ばれ、ミュケナイ美術とは明確に区別されるようになった。 紀元前925年頃になるとこの傾向はより顕著に現れるようになり、紀元前8世紀前半に登場したディピュロン式陶器はメアンダー文、ジグザグ文、鋸歯文、菱形文などを複雑に組み合わせた装飾が配されている。 こうした幾何学的な構想は陶器の文様に限らず、テラコッタや青銅小彫刻などにおいても同様の傾向が見られ、動物や人間などの各部位を幾何学的形態に置き換えた後に全体を再構築するという過程を経て制作されており、有機的形態の分析による認識法や、部分均衡と全体調和によるギリシア美術固有の造形理念が見られる。以上のような経緯を経てギリシア美術は確立に至るが、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンが記した『古代美術史』に代表されるように、ギリシア美術こそが西洋美術のはじまりであるとする言説も存在している。 その後、エジプト、アッシリア、シリアの東方から持ち込まれた工芸品を通じて、ギリシア美術における装飾モチーフの表現領域が大きく拡大し、パメルット(英語版)、ロータス、ロゼットなどの植物文やスフィンクスなどの空想動物が用いられるようになった。プロト・コリントス式陶器やコリントス式陶器など、こうした装飾モチーフを利用して制作された作品はギリシア美術の中でも特に東方化様式と呼称し、区別されている。 一方、アテネでは叙事詩や物語への関心が高まったことによりこれらをモチーフとした陶器や彫刻が制作され、これらはやがて神話表現へと昇華していくこととなった。紀元前7世紀に入るとエジプト彫刻の影響で大掛かりな彫刻が制作されるようになり、この頃作られた男性裸体像(クーロス(英語版))は既に両足を前後させて体重を均等に支えるポーズをとっており、ギリシア彫刻としての特徴が見て取れる。 ここまでに培われた表現基盤と技術的要素を背景として紀元前7世紀中盤ごろよりギリシア美術において最も創造力に満ちたアルカイック美術が展開された。人体彫刻はより自然な骨格と筋肉をまとったものへと発展し、神殿建築分野ではこれまでの日干煉瓦や材木に代わって石材が使用されるようになり、アポロン神殿(ドイツ語版)に代表される周柱式神殿が誕生した。紀元前6世紀にはサモスのヘラ神殿やエフェソスのアルテミス神殿など、イオニア式オーダーによるより巨大な神殿が建立されるに至り、これに伴う建築装飾技法が大いに発達した。 浮彫彫刻では静止像に動性を、運動像に瞬間の静止を表現できるよう試行錯誤が繰り返されるようになり、その過程でアルカイックスマイルなどの立体表現が生み出された。なお、ギリシア美術で好んで使用された素材である大理石の色によってギリシア彫刻の特徴としてその「白さ」が取り上げられることがあるが、制作当時はエジプトから輸入された顔料などを用いて鮮やかな彩色が施されていたことが近年の研究によって明らかになっている。 陶器画の分野ではアッティカがコリントス式陶器の技法を吸収して黒絵式技法を確立し、フランソワの壺に代表されるような、神々や英雄の神話的場面を描出した作品が制作された。アマシスやエクセキアスはこの技法をさらに洗練させ、前者は人間味溢れる神々の姿を、後者は重厚な筆致で崇高な神々の姿を描き出し、神人同形(アントロポモルフィズム)という観念を確かなものとしている。その後、黒絵式陶器画は赤絵式陶器画へと転換していき、より細部にこだわった絵画的な表現がなされるようになった。こうした技法発展の背景は、板絵や壁画といった新しい芸術表現に対する絵画的探究の表れだったのではないかと考えられている。 紀元前5世紀初頭に入ると、ポリュグノトス (en:Polygnotos (vase painter)) やミコン(英語版)といった画家によって「トロイアの陥落」「マラトンの戦い」などの神話歴史画が描かれ、大絵画というジャンルが確立するに至った。四色主義(テトラクロミズム)という制約の下、形像の重複や短縮法といった技法を駆使することによって絵画上に奥行きのある空間表現を試みており、絵画、彫刻におけるギリシア美術の進むべき方向性を示したという意味で特筆すべき存在となった。彫刻分野の作品においては、それまでの直立不動の姿態から支脚/遊脚の概念を取り入れたコントラポストへと変化しており、クリティオスの青年(英語版)やデルフォイの御者像(英語版)などが制作された。 この時代、ペルシアを撃退し、ギリシア世界の覇権を獲得したアテネは最盛期を迎え、ギリシア美術もそれにあわせてクラシック時代という新しい領域へと突入することとなった。ペリクレスによってアクロポリスの整備が推進され、オリンピアのゼウス神殿やパエストゥムのポセイドン神殿で培った技術にイオニア的な優美さを付加したパルテノン神殿が建立される。彫刻分野ではパルテノン神殿の造営を指揮したフェイディアスによってアテナ・パルテノスの黄金象牙像が制作された他、ポリュクレイトスによって体中線をS字に湾曲させるなどの技法が生み出され、コントラポストの極致が確立された。絵画の分野ではアポロドロスによって空間表現に不可欠な幾何学的遠近法、空気遠近法の融合化を図った作品が制作された。その他、明暗技法に優れた才能を発揮したゼウクシス、性格表現と寓意的表現に優れていたパラシオスなどがギリシア美術における絵画の発展を牽引している。 クラシック時代後期に入ると個人主義が台頭し、美術界においても多大な影響を与えた。彫刻分野ではプラクシテレス、スコパス、リュシッポスが静像に内面性を付加させた表現技法を生み出すとともに、裸体女性像の価値を大きく引き上げることに貢献した。アレクサンドロス3世の宮廷彫刻家としても知られるリュシッポスは肖像彫刻の分野でも優れた作品を残しており、後世ヘレニズム美術(英語版)やローマ美術の彫刻家達に大きな影響を与えた。同じく宮廷画家であったアペレスは明暗法、ハイライト、遠近法を駆使した大絵画を創出し、古代最大の画家と評価されている。 アレクサンドロス3世の死後、ヘレニズム諸王国が出現し経済活動、人口流動が活発化すると美術の産業化が顕著となった。富裕層の市民が住宅を壁画で装飾して彫刻で彩ることが流行化し、古典主義美術の伝統が一時的に途絶えることとなった。こうした現象についてローマ時代の文筆家大プリニウスは「美術は紀元前3世紀第2四半期に滅亡し、紀元前2世紀中頃に復興した」としている。
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