解明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/07 23:08 UTC 版)
解 明 | |
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各種表記 | |
ハングル: | 해명 |
漢字: | 解 明 |
発音: | {{{nihonngo-yomi}}} |
日本語読み: | かい めい |
解 明(かい めい、朝鮮語: 해명、生没年不詳)は、百済の将軍。大姓八族の一つである解氏出身の貴族。官位は「扞率」[1]。
人物
501年8月、東城王に加林城への赴任を命じられた苩加は、病気を口実に赴任しなかった。東城王は強制的に苩加を加林城に赴任させるが、怨みを抱いた苩加は、叛乱を起こした。501年12月に即位した武寧王は、解明に苩加の討伐を命じた[1]。苩加は、降伏したが、斬首に処し、死体は白江に捨てた[1]。
出自
大姓八族の一つである解氏は夫余族の出自[2]。解氏は、百済の建国初期から中央政界で大きく活躍したが、百済の建国者・温祚とは異なる勢力であるため、解氏の国政参加は、百済の国政に参加する勢力が拡大していく過程といえる[2]。
百濟始祖溫祚王,其父,鄒牟,或云朱蒙。自北扶餘逃難,至卒本扶餘。扶餘王無子,只有三女子,見朱蒙,知非常人,以第二女妻之。未幾,扶餘王薨,朱蒙嗣位。生二子,長曰沸流,次曰溫祚。及朱蒙在北扶餘所生子,來為太子。沸流、溫祚,恐為太子所不容,遂與烏干、馬黎等十臣南行,百姓從之者,多。遂至漢山,登負兒嶽,望可居之地,沸流欲居於海濱。十臣諫曰:「惟此河南之地,北帶漢水,東據高岳,南望沃澤,西阻大海。其天險地利,難得之勢,作都於斯,不亦宜乎?」沸流不聽,分其民,歸彌鄒忽以居之。溫祚都河南慰禮城,以十臣為輔翼,國號十濟,是前漢成帝鴻嘉三年也。沸流以彌鄒,土濕水鹹,不得安居,歸見慰禮,都邑鼎定,人民安泰,遂慙悔而死,其臣民皆歸於慰禮。後以來時百姓樂從,改號百濟。
温祚の父は鄒牟または朱蒙といい、北夫余から逃れて卒本夫余に着いた。夫余王には男児が無く娘が三人いたが、朱蒙の人となりをみて非凡の人であるとして二番目の娘を嫁がせた。その後、夫余王が亡くなったので朱蒙が王位について、二人の子をなした。長子を沸流、次子を温祚といった。朱蒙がかつて夫余にいたときの子が朱蒙の下に来て太子となったため、沸流・温祚はこの太子に受け容れられないことを恐れて、烏干・馬黎らの十人の家臣と大勢の人々とともに南方に逃れた。漢山まできて負児嶽に上り、居留地として相応しいかどうかをみることとした。沸流は海浜に住みたいと言い出し、十人の家臣はこの地が都とするに相応しいと諌めたが聞かず、引き連れた人々を分けて、弥鄒忽まで行ってそこに国を建て、温祚は漢山の地で慰礼城に都を置き、国を起こした。これが前漢の鴻嘉三年のことであり、初め十人の家臣に援けられたので国号を「十済」としたが、のちに沸流の下に従った人たちも慰礼城に帰属し、百姓を受け容れたので国号を「百済」と改めた。 — 三国史記、巻二十三
「十済」と「弥鄒忽」の建国者と記録される沸流や温祚は、個人的な政治勢力ではない。卒本夫余を離れ、移民後に小国を建国したことから、一定の集団を形成していたことは間違いない。そのため、沸流や温祚は十人の家臣と大勢の人々を従えていたと記録されている[3]。ところが、「十済」の建国地だった漢江流域には沸流や温祚集団以外にも北方から来た移民集団がいた[3]。すなわち、「十済」「弥鄒忽」建国時、「十済」の周辺は「十済」とは別の移民が建国した小国があった。『三国史記』温祚王四十一年条は、五部の北部に属する解婁を「右輔」とし、解婁は本来夫余人だったという記録を通じて「十済」の北側に夫余からの移住者が定着していた事実が分かり、そのような夫余から移民してきた勢力が「十済」に統合され「百済」の成長につながった[3]。
脚注
解明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 17:45 UTC 版)
異なる種の異なる症状・疾患が実は同じ原因で、それは異常蛋白が原因だった。 1959年、W.J.Hadlowがスクレイピーとクールーが海綿状態において類似することを発表し、1966年、Gajdusekがクールーをチンパンジーに伝達することに成功した。同じ頃、神経難病を高等哺乳類に伝達する実験が行われていたが、いずれも不成功の中、海綿状態を共通項として、クロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)、家族性のゲルストマン・ストロイスラー・シャインカー症候群、(最近では牛海綿状脳症)などの伝達が証明された。 スクレイピーは18世紀から知られる羊の神経疾患で、J.Cuilleが1936年に脳の乳化物を動物に接種して、疾患が伝達されることを確認した。その後、病原体が濾過性であることから、1954年にシガードソン(Bjoern Sigurdson)が遅発性ウイルスを提唱した。1959年にWilliam Hadlowがスクレイピーとクールー(Kuru)の海綿状態が似ていることに気づき論文を発表。これを受け、ガイジュセック(Daniel_Carleton_Gajdusek)が1966年にチンパンジーへの伝達実験に成功し、遅発性ウイルス説を主張した。また、1959年に、Igor Klatzoがクロイツフェルト・ヤコブ病(CJD)の一部の病型ではKuru同様の海綿状態を示すことを指摘し、Gibbsが1968年にCJDの伝達実験に成功した。 このころから、ウイルス説が全盛となったが、1974年、日本では生田が脂質代謝異常説をとるなど、疑問を呈する研究者もあった。電子顕微鏡でウイルスを見出したとする報告もあったが、再現性のある報告は続かず、通常のウイルスとしては異例の性質が注目されるようになった。 スタンリー・B・プルシナー はスクレイピーの脳標本から原因物質単離を試みた。遠心分離やその他の技術で上清、蛋白、ウイルス、細胞膜等を分離し、蛋白分画に感染性があることを証明し、1982年に感染性の蛋白という意味のプリオンを提唱した。その後の研究により、プリオン蛋白が立体構造を変化させて発病するというメカニズムで、孤発例、遺伝例、伝達例を比較的シンプルに説明した。その功績により、1997年にノーベル賞の医学・生理学賞を受賞した。 ノーベル賞講演の中でプルシナーはプリオンがまだ仮説の段階であり、ウイルスの可能性は否定できないと述べている。しかし、その意味するウイルスは通常のビリオンの形をとるウイルスのことではない。プリオン蛋白の分子量程度で、プリオン蛋白サンプル作成中に混入しうる小RNAを想定している。植物に病気を起こすウイロイド(200-400塩基)は、RNAの立体構造が宿主のRNAを乱すことで、発病するという説がある。同様に、核酸がプリオン蛋白に作用して、立体異性を引き起こす可能性も否定できないと主張している。 プルシナーの研究グループは'97年以降も研究を重ね、2005年、50塩基以上の核酸断片を除き、かつ感染力のあるプリオン蛋白分画を用意し、これに混入する25塩基程度の核酸断片は宿主細胞由来のものであることを示し、化学処理の結果から考えると、核酸が異常プリオン蛋白の原因である可能性は極めて低いとしている。まだ可能性は0ではないかもしれないが、プリオン蛋白以外の不純物に原因を求めるのは、かなり難しくなっている。
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解明
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