ウイルス説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 02:54 UTC 版)
「がんは感染症ではない」とも考えられていた。白血病のように、患者から家族や医療関係者に伝染することがないためである。だが、動物(の個体)からとった腫瘍を他の動物(の個体)に移植すると癌が誘発されることがわかった19世紀末以降は、がんにも感染性の病原体があるのかも知れないと考える人も出てきて、彼らは20世紀初頭までに、原生動物やバクテリア、スピロヘータ、かびを調べた。それらの研究はうまくゆかず、がんの原因に感染症があると考える諸説は信用を失いそうになった。だが、ペイトン・ラウスが腫瘍から細胞とバクテリアを取り除いた抽出液をつくることを思いつき、それを調べれば細胞の他に作用している因子が見つかるかも知れないと考え、ニワトリの肉腫をろ過した抽出液を健康なニワトリに注射し、その鶏にも肉腫が発生するのを実験によって確認。その腫瘍は、微小な寄生生物、おそらくウイルスに刺激されて生じたものかも知れない、とした。当時はウイルスの正体は分かっておらず、「…でないもの」という否定表現でしか記述できなかった。科学者はがんが感染するという実験的事実から、未知の病原体が存在するであろうことにも気付いた。その後、ウサギでも同様の実験結果が得られたが、腫瘍を伝染させることに成功したのは主にニワトリ(やウサギ)の場合に限られていたので、やがて、がんの一因にウイルスがあるとする説は評判が悪くなってしまい、これを支持する科学者は評判を落としてしまいかねないような状況になった。異端の説だと見なされ、疑似科学者扱いされかねない空気が科学界に蔓延した。 ジャクソン研究所(英語版)は、1929年に設立された組織で、今日では基礎医学研究用の規格化マウスを供給する組織として米国最大のものであり、その研究所でのがん発生研究のプログラムというのは「問題は遺伝子であって、ウイルスではない」という前提の下に行われていた。だが、同研究所のジョン・ビットナー(英語版)が、マウスのある種のがんは、母乳中の発がん因子が授乳を通じて子に移される仕組みであるという、ウイルスが関与しているという証拠を偶然に発見した。だが、当時の科学界は上述のようにウイルス説を異端視していたのでビットナーは躊躇して、それを「ウイルス」とは呼ばず、あえて「ミルク因子」と呼んだ。 ルドウィク・グロス(英語版)も、ウイルスが癌の原因になることがあることを、マウスの白血病がウイルスによってうつることを示す実験を行うことで確かめ、それを発表・報告したのだが、がん研究者の大半はその報告をまともに受け取らず、データ捏造をしているのでは、と考える者すらいた(ワシントンにある研究公正局に出頭を求められかねないような扱いを受けた。 アメリカ国立癌研究所が設立された時期、公衆衛生局局長の諮問委員会は「がんの原因としてウイルスは無視できる」と結論づけた。 「《ミルク因子》というのは、ウイルスだ」と解釈することを科学的なこととして認め、ウイルス説を科学的に真面目に検討すべきだ、という認識ができてきたのはようやく1940年代末のことだった。状況を変えた人物はジェイコブ・ファース(Jacob Furth、1896-1979) であった。ファースは既に高名な科学者であったが、その彼がグロスの実験を、それに用いるマウスの種類まで正確になぞることで、実験に再現性があること、そして事実であることを証明した。それによって基礎医学者たちがようやく、悪性腫瘍にウイルスが関与することがあるということを理解するようになった。かくして、長らく異端者のように扱われてきたペイトン・ラウスは、1966年に85歳でノーベル生理学・医学賞を受賞した。
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