ギリシア芸術の導入と北方の植民市
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「ローマ建築」の記事における「ギリシア芸術の導入と北方の植民市」の解説
紀元前4世紀まで、ローマ市は地中海文明からは完全に取り残された、どちらかというとあまり目立たない存在だった。ローマの最初の建築は、その歴史が示すように、エトルリアからの直接的な影響を受けている。初期のローマの神殿、例えば紀元前509年に奉献されたと伝えられるカピトリヌスの丘のユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿は、深い軒を内陣の前面に有し、内陣が三連の室から成るため、間口の広がった横長のほぼ正方形に近い平面であった。このように、低く横に間延びした構成はギリシア建築の神殿とは全く形態が異なる。三つの内陣は、都市の建設に際して加護を求める三柱の神、ユピテル、ユーノー、ミネルウァのためのもので、その加護は神殿から見渡すことのできる範囲に限られるため、この神殿は市(ウルブス)の最も高い丘の上に、基壇(ポディウム)を構築して建設された。ポディウムを設けて建築物に記念的な効果を持たせる試みはエトルリアにおいても比較的新しい発想で、その意識はギリシア建築の影響によるものと思われるが、基壇の形態そのものはギリシアのものではなく、エトルリアの神殿建築に由来している。このほか、紀元前5世紀初期にフォルム・ボアリウムに建設された、フォルトゥナ、マーテル・マートゥータ神殿も、発掘によってほぼ同じ構成を持つエトルリア式神殿であったことが分かっている。神殿以外の建築物について多くのことはわからないが、パラティヌスの丘に残る紀元前6世紀頃の貯水槽、および同時代の市壁 などは、技術的面において、エトルリア建築のものとよく一致している。 しかし、紀元前4世紀になると、ローマは転換期を迎える。紀元前338年のラティウム戦争の勝利によって、ローマはカンパーニアにまで勢力を広げ、紀元前275年のエピロス戦争と紀元前247年の第一次ポエニ戦争の勝利によって、マグナ・グラエキア(イタリア半島南部とシチリア島)がローマの勢力下に置かれた。紀元前200年頃のこれらの地域は、シュラクサイ(現シラクサ)やアクラガス(現アグリジェント)、ポセイドニア(現パエストゥム)などのギリシア植民都市が割拠しており、そこはまさにヘレニズム文化の領域であった。ローマはさらに、ポエニ戦争の終結後、紀元前200年にマケドニア王国と緒戦を開き(第二次マケドニア戦争)、紀元前146年にコリントスを征服、マケドニア王国、アテナイを制圧してバルカン半島に進出した。文化的に高い水準を維持していた南イタリアやバルカン半島の征服と略奪は、ローマに多くのギリシア芸術をもたらし、これに反発する人々はいたものの、小スキピオやルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスをはじめとするローマ人に受け入れられ、圧倒的な影響力を及ぼすことになった。建築についても、紀元前2世紀末には、ヘルモドーロスのようなギリシア人建築家がユピテル・スタトル神殿を設計するなどの活動を行っている。ギリシア建築の影響は神殿建築に顕著に現れており、エトルリア時代の木とテラコッタから成る平たい構成の神殿ではなく、ポルトゥヌス神殿のような、大理石を用いた疑似周柱式の構成を持つ神殿が出現した。 オーダーについても、擬似的なオーダーは一掃され、ヘラクレス・ウィクトール神殿に見られるような正確なギリシア式オーダーに変貌した。このようなギリシア芸術の影響は、ローマが衰退し、古代建築の規範が崩壊する4世紀頃まで、ローマ建築の中に受け継がれた。 一方、ローマは地中海とは異なる方向、アルプスに至る北方地域にも領土を拡大していた。共和制時代に北イタリアには多くの植民市が建設されたが、これによってローマは、ローマ式の社会構造とそれを収容する施設を都市に導入する機会を得ることになった。アリミヌム(現リミニ)、プラケンティア(現ピアチェンツァ)、ティキム(現パヴィーア)、ネマウスス(現ニーム)、コムム(現コモ)などの軍事拠点都市にはローマの社会構造と地中海文明の都市形態が導入され、格子状の街路によって整然と区画された都市のかたちは、現在でもはっきりと認めることができる。
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