ダダとメルツ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 20:24 UTC 版)
「クルト・シュヴィッタース」の記事における「ダダとメルツ」の解説
シュヴィッタースは1918年末または1919年初頭に、ベルリン・ダダへの参加を打診している。ラウル・ハウスマンによれば、リヒャルト・ヒュルゼンベック(Richard Huelsenbeck)は、シュヴィッタースがデア・シュトゥルムや表現主義に関わりを持っていることを理由に拒否した。彼らダダイストにとって、表現主義は救いがたくロマン主義的で、美学に取り憑かれているとみられていた。 ベルリン・ダダの活動に直接参加しなかったものの、彼はダダイスムのアイデアを作品に採り入れ、1919年に出版したアーティストブック『アンナ・ブルーメ、詩集』(Anna Blume, Dichtungen)では赤い字で大きく「ダダ」(dada)の文字をあしらい、後にはテオ・ファン・ドゥースブルフ、トリスタン・ツァラ、ラウル・ハウスマン、ハンス・アルプらとヨーロッパ各地のダダ・リサイタルを通じて交流した。シュヴィッタースの作品は、政治的でアジプロ(扇動と宣伝)を通じたアプローチを行うベルリン・ダダより、パフォーマンスと抽象芸術に重きを置くチューリヒ・ダダと様々な点で共通点があり、ツァラらが発行していたチューリヒ・ダダ最後の雑誌「デア・ツェルトヴェーグ」(der Zeltweg)1919年11月号でもゾフィー・トイバーとアルプ夫妻とともに作品が紹介された。ジョン・ハートフィールドやジョージ・グロスといったベルリン・ダダの主要作家たちに比べると政治的色彩はほぼ皆無な作品を作るシュヴィッタースであったが、終生の友人ハウスマンやヘッヒらを含め様々なダダイストたちと交友関係があった。 メルツは「心理学的コラージュ」とも呼ばれていた。その作品の多くはシュヴィッタースが生活の中で偶然見つけた書物や物品の端切れ(found object, ファウンド・オブジェ)が使われ、彼自身を取り囲む世界の美的感覚を首尾一貫させようという意図により作られていた。こうしたコラージュは、当時の出来事に対するウィットに富んだほのめかしになることもあった(例えばメルツ絵画のひとつ、『Merzpicture 29a, Picture with Turning Wheel』と題された1920年の作品は、時計回りにしか回らない車輪に、スパルタクス団の蜂起の後に右傾化や兵士らによる蜂起が起きた当時の社会情勢をほのめかしている)。またグラフィック・デザインの試し刷りの紙、バスの切符、友人のくれたエフェメラなどといった素材には自伝的要素も含まれている。さらに、後年のコラージュには、後にポップアートが使うことになるマスメディア好みの大衆的イメージが起用されてもいる(1947年の『En Morn』には、エドゥアルド・パオロッツィの初期作品に先立って金髪の若い女性の画像が使われている。1959年にシドニー・ジャニス・ギャラリーで行われたシュヴィッタースの回顧展を訪れたロバート・ラウシェンバーグは、展覧会を見た後「彼は僕のために全部作ってくれた気がする」とも述べており、これらから直接の影響を受けたとも見られている)。 彼は生涯にわたり「メルツ」という言葉を使い続けた。「メルツ」と呼ばれる彼の作品には、切符や印刷物や針金といったファウンド・オブジェを使ったコラージュからなる絵画(メルツ絵画)が多かった一方、アーティストブック、彫刻、音響詩、さらに後年「インスタレーション」と呼ばれる空間を使った芸術も彼は「メルツ」と呼んだ。
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