右傾化
右傾
(右傾化 から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/02/15 02:59 UTC 版)
右傾(うけい)とは、元々左翼・中道的だったものが保守的、反共的、国粋主義的になったり、元来から右翼的であったものが一層右翼的傾向を強めること。反意語は左傾[1]。
概要
「右傾」の基準は一様ではなく、左の過激派である極左が穏健化しても、あるいは右の過激派である極右に転じても、いずれも右傾と呼ばれることはありうる。また、他者の右傾を批判した個人・団体が、同時に第三者から右傾を批判されることもある。半ばレッテル貼りのように使われることも少なくない。
一例を挙げると、日本共産党が社会民主党・公明党などの右傾を批判する一方、新左翼は共産党を右傾していると批判するといった具合である。2025年発足の高市内閣は立憲民主党などの野党から「右傾化」と非難されているが[2]、これに対して高市自身は「右傾化」ではなく「普通の国になるだけ」になると主張しており[3]、当の立憲民主党自身が中道改革連合に合流することにより存立危機事態の自衛権行使を合憲、原発再稼働を容認など立憲の従来路線から変化したことが「右傾化」と非難されていることもある。
また、日本人を拉致し、核ミサイル開発を継続する北朝鮮や経済面で成長し、外洋への膨張政策を取る中国の脅威、竹島問題や慰安婦像設置などによる韓国に対する嫌悪感情の高まりなども、世論の右傾の容因だと見做されることがある。
なお、左翼の右傾(反共化)を特に指す用語として、「右転落」がある[4]。これは、明確に「転落」を批判する意味がある。
欧州では、不況により、労働者らが賃金の安い外国人労働者たちを敬遠または敵視する傾向が高まり、自国民の労働を確保する運動なども外国人排斥などとされ、右傾につながっていると言われることがある[5][6]。
脚注
- ^ うけい【右傾】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
- ^ “立憲・野田氏、自維連立で右傾化懸念 外国人政策「排斥的な流れに」”. 毎日新聞デジタル. (2025年10月20日) 2026年1月25日閲覧。
- ^ “高市首相「右傾化ではなく普通の国になるだけ」…解散表明会見、質疑応答全文”. 読売新聞オンライン. (2026年1月19日) 2026年1月25日閲覧。
- ^ 日本共産党 『社会党の右転落と革新統一への展望』(1980年12月)など
- ^ 深まる世界同時不況、台頭する経済ナショナリズム 国際ニュース AFP
- ^ ヨーロッパに押し寄せる右翼ナショナリズムの波 人民新聞
関連項目
右傾化
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「ピエール・ビエトリー」の記事における「右傾化」の解説
1898年から1901年の間、ビエトリーは一連のストライキで活動し、1899年にはパリの労働者の行進を指導した。これらの活動の失敗への失望から、従来の社会主義から立場を移し主にゼネストに対し反対の立場をとる様になる。その代案として労働者階級の苦しみを軽減するための階級協業を提唱し、1900年に POF を離党。それ以降は、非政治的な労働組合活動と労使間における協調主義的関係を主張し、1902年には労働組織として「フランス黄色国家連合」(fr:Fédération nationale des Jaunes de France)を結成、翌1903年には政党として国家社会主義党(National Socialist Party)を結成した。当初でこそ低調だったものの、ナショナルセンターによる強硬路線が概ね頓挫した後の1910年~1911年にかけて、多くの穏健な労働者がビエトリー派支持に替わっていった。 マルクス主義の「赤色」と対比させたビエトリーの「黄色」運動は、協調主義的ながらも反資本主義・愛国主義的な側面、更には反ユダヤ主義的な傾向を有していた。そのため、ビクトル・アンリ·ロシュフォール(en)や、ポール・デルレード、エドゥアール・ドリュモン(en)を始めとした伝統的な保守主義者からも支持を獲得した。「アクション・フランセーズ」に対しても一時期共闘の姿勢を見せていたものの、ビエトリーの頑固な個性と運動の主導権を握りたいフランセーズ側で折り合いがつかず結局喧嘩別れに終わった。1906年の議会選挙(en:French legislative election, 1906)で当選した。
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