1920年-1922年 右傾化と政治力の集約
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:18 UTC 版)
「ファシズム」の記事における「1920年-1922年 右傾化と政治力の集約」の解説
1920年にファシズムは政治的に右への傾向が始まった。この傾向は、イタリアで工業労働者の過激なストライキ活動が頂点に達して「赤い年」と呼ばれるようになった1919年と1920年に、同時期に起こった。ムッソリーニとファシストは、工業経営者と手を結ぶ事で優位な状況を得て、秩序の維持とイタリア国内の平和という名目で、労働者や小作人を攻撃した。 ファシストは、第一次世界大戦への参戦に反対した左派の社会主義者の多数派を、彼らの第一の敵と位置づけた。ファシストとイタリアの右派は、マルクス主義を蔑視し、階級意識を割り引き、エリートの規則を信じるなどの、共通の基盤を持った。ファシストは、国家的なアイデンティティーよりも階級のアイデンティティーを確約するイタリア社会党や労働者組織を破壊するための相互努力の中で、右派との同盟によって右派の反社会主義キャンペーンを支援した。 ファシズムは、その従来のポピュリズムや共和主義や反教権主義を捨てていき、イタリアの既存の資本主義の支持やカトリック教会の受容や王制などを受け入れるという、その政策の大きな変更によって、イタリアの保守主義に順応していったとみなされた。ファシズムはイタリアの保守主義者にアピールするために、女性の母としての役割の推進を含む、家族の価値の推進などの政策を採用した。しかし、ファシズムは反動主義者にアピールすることを意図した多くの姿勢の採用にもかかわらず、ファシズムの革命的な性格を維持したとみなされており、Angelo Oliviero Olivettiは「ファシズムは保守主義でもありたいが、しかし革命的であり続けることによってそうなる」と述べた。ファシスト達は、保守主義者達とサンディカリスト達の両方にアピールするために、革命的な行動と、法や秩序の維持の確約の両方を支持した。右傾化の以前には、ファシズムは約1000名のメンバーを持つ、小規模で、都会の、北部イタリアの運動だった。その以後には、ファシスト運動のメンバーは1921年までには 25万名に上昇した。1921年11月には「イタリア戦闘者ファッシ」は政党「ファシスト党」(国家ファシスト党、ファシスタ党)に改組された。
※この「1920年-1922年 右傾化と政治力の集約」の解説は、「ファシズム」の解説の一部です。
「1920年-1922年 右傾化と政治力の集約」を含む「ファシズム」の記事については、「ファシズム」の概要を参照ください。
- 1920年-1922年 右傾化と政治力の集約のページへのリンク