1920年 - 1930年
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「リーハイ・バレー鉄道」の記事における「1920年 - 1930年」の解説
1920年代を通じて、リーハイ・バレー鉄道はモルガン/ドレクセル銀行の所有下にあったが、1928年にその手から所有権を奪おうとする動きがあった。1927年にデラウェア・アンド・ハドソン鉄道の社長レオノア・ロリー(英語版)は、ウォーバッシュ鉄道、バッファロー・ロチェスター・アンド・ピッツバーグ鉄道(英語版)、リーハイ・バレー鉄道からなる、東西を結ぶ5本目の幹線を形成するという考えを着想した。デラウェア・アンド・ハドソン鉄道が発行した債券によりリーハイ・バレー鉄道の株式の30パーセントを買い付け、またほぼ半数の株主からの支持を得た。1928年にロリーは、新しい社長と取締役を送り込もうと試みた。これにより大規模なプロキシーファイトが発生し、それまでの社長エドワード・ルーミス (Edward Eugene Loomis) がJ.P.モルガンのエドワード・ストーツベリー(英語版)の支援によりかろうじて地位を保つことができた。 構想に失敗して、デラウェア・アンド・ハドソン鉄道は持ち株をペンシルバニア鉄道へ売却した。その後数年間にわたり、ペンシルバニア鉄道は、直接および子会社(主にウォーバッシュ鉄道)を通じてひそかに株式を買い増していった。1931年までにペンシルバニア鉄道は、リーハイ・バレー鉄道の株式の51パーセントを握った。ルーミスが1937年に亡くなった後、社長はルーミスの補佐であったダンカン・カー (Duncan Kerr) へと引き継がれた。しかし1940年にアルバート・ウィリアムズ (Albert Williams) に代わり、リーハイ・バレー鉄道はペンシルバニア鉄道の影響下に置かれるようになった。1941年にペンシルバニア鉄道は、ウォーバッシュ鉄道の買収に関するニューヨーク・セントラル鉄道との協定により、自社の保有するリーハイ・バレー鉄道の株式を議決権信託に委ねることになった。
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