1920年のイースター危機
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「クリスチャン10世 (デンマーク王)」の記事における「1920年のイースター危機」の解説
1920年4月、クリスチャン10世はイースター危機を煽動した。すぐに国王と内閣の間で、シュレスヴィヒのデンマーク再統一に対して対立が起こった。この地は旧デンマーク領であり、第2次シュレスヴィヒ戦争でプロイセンに奪われたのである。 元来シュレスヴィヒに住むデーン人問題は長らく存在していたが、第一次世界大戦におけるドイツ帝国の敗北はこの問題の解決の糸口を作った。ヴェルサイユ条約の規定のよればシュレスヴィヒは2地区(1つは現在のデンマークの南ユトランド州、すなわち北シュレスヴィヒ。もう一つは現在のドイツ連邦共和国のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州、即ち中シュレスヴィヒ)で住民投票で帰属を決定することになっていた。ドイツ系の住民が多数派を占める南シュレスヴィヒでは住民投票そのものが行われず、戦後もドイツの一部であると定められた。 北シュレスヴィヒでは75%の住民がデンマークとの再統一を支持し、ドイツ残留を支持したのは25%であった。中シュレスヴィヒでは逆に、80%がドイツへ残ることを希望し、デンマークへ再統合を求めるのはわずか20%しかいなかった。選挙結果を受けたカール=テオドール・ツァーレ首相は北シュレスヴィヒの再統合を決定、中シュレスヴィヒに関しては引き続きドイツの領有を認めた。 しかし多くのデンマークの民族主義者は投票の結果を考えなしに、中シュレスヴィヒもデンマークに回帰されるべきだと信じており、また長年苦しめられてきていたドイツを弱体化させることを望んでいた。クリスチャン10世はこの考えに賛同し、首相に中シュレスヴィヒもデンマークに統合するよう命じた。けれども1901年の先の危機以来、デンマークは立憲君主制であったので、ツァーレ首相は王命には従う義務はないと判断。結局彼はクリスチャン10世との激論の末、国王を無視して北シュレスヴィヒのみの編入を実行した後、数日後に自分が首相を辞任することで決着をつけようとした。 だが怒ったクリスチャン10世は残った内閣を罷免、そして代わりに保守派の内閣を任命して中シュレスヴィヒの奪回を目指そうとした。しかし、この内閣の罷免は猛烈なデモを引き起こし、あわや革命のような雰囲気を誘発することになり、王制廃止論すら公然と言われるようになってしまった。やむを得ずクリスチャン10世は社会民主主義者との交渉を行った。結局国王が妥協して保守派の内閣を罷免、選挙が行われるまで妥協的な内閣を任命して事態の収拾を図ることを余儀なくされた。その後国王の権限は大幅に削減され、クリスチャン10世は象徴的な国家元首とされることとなった。なお、この行動はデンマーク国王が議会の承認を得なかった最後の政治行動とされている。
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