1920年のイースター危機とは? わかりやすく解説

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1920年のイースター危機

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/26 09:42 UTC 版)

クリスチャン10世 (デンマーク王)」の記事における「1920年のイースター危機」の解説

1920年4月クリスチャン10世イースター危機煽動した。すぐに国王内閣の間で、シュレスヴィヒデンマーク再統一に対して対立起こった。この地は旧デンマーク領であり、第2次シュレスヴィヒ戦争プロイセン奪われのである元来シュレスヴィヒに住むデーン人問題長らく存在していたが、第一次世界大戦におけるドイツ帝国敗北はこの問題解決糸口作ったヴェルサイユ条約規定のよればシュレスヴィヒは2地区1つ現在のデンマークの南ユトランド州、すなわち北シュレスヴィヒもう一つ現在のドイツ連邦共和国シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州、即ち中シュレスヴィヒ)で住民投票帰属決定することになっていた。ドイツ系住民多数派占める南シュレスヴィヒでは住民投票そのものが行われず、戦後ドイツ一部であると定められた。 北シュレスヴィヒでは75%の住民デンマークとの再統一支持しドイツ残留支持したのは25%であった。中シュレスヴィヒでは逆に80%がドイツへ残ることを希望しデンマーク再統合求めるのはわずか20%かいなかった選挙結果受けたカール=テオドール・ツァーレ首相は北シュレスヴィヒ再統合決定、中シュレスヴィヒに関して引き続きドイツ領有認めた。 しかし多くデンマーク民族主義者投票の結果考えなしに、中シュレスヴィヒデンマーク回帰されるべきだと信じており、また長年苦しめられてきていドイツ弱体化させることを望んでいた。クリスチャン10世はこの考え賛同し首相にシュレスヴィヒデンマーク統合するよう命じた。けれども1901年先の危機以来デンマーク立憲君主制であったので、ツァーレ首相王命には従う義務はないと判断結局彼はクリスチャン10世との激論の末、国王無視してシュレスヴィヒのみの編入実行した後、数日後自分首相辞任することで決着つけようとした。 だが怒ったクリスチャン10世残った内閣罷免、そして代わりに保守派内閣任命してシュレスヴィヒ奪回目指そうとした。しかし、この内閣の罷免猛烈なデモ引き起こし、あわや革命のような雰囲気誘発することになり、王制廃止論すら公然と言われるようになってしまった。やむを得ずクリスチャン10世社会民主主義者との交渉行った結局国王妥協して保守派内閣罷免選挙が行われるまで妥協的な内閣任命して事態の収拾を図ることを余儀なくされた。その後国王権限大幅に削減されクリスチャン10世象徴的な国家元首とされることとなった。なお、この行動デンマーク国王議会承認を得なかった最後政治行動とされている。

※この「1920年のイースター危機」の解説は、「クリスチャン10世 (デンマーク王)」の解説の一部です。
「1920年のイースター危機」を含む「クリスチャン10世 (デンマーク王)」の記事については、「クリスチャン10世 (デンマーク王)」の概要を参照ください。

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