労働組織
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 06:19 UTC 版)
「アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918)」の記事における「労働組織」の解説
労働者を全国的な組織に組み入れようという最初の大きな動きは1869年のナイツ・オブ・レーバーのノーブル・オーダーのものだった。これは元々フィラデルフィアの衣料労働者によって組織化された秘密の儀礼的組織だったものが、アフリカ系アメリカ人、女性および農夫などあらゆる労働者に開かれた。ナイツ・オブ・レーバーは1885年のストライキで偉大な鉄道貴族ジェイ・グールドを屈服させた時までは緩り成長していた。この時から1年以内に新たに50万人が加盟した。 しかし、ナイツ・オブ・レーバーは間もなく衰退を始め、労働運動におけるその地位は次第にアメリカ労働総同盟によって置き換えられていった。葉巻製造会社の元組合役員だったサミュエル・ゴンパーズが指導したアメリカ労働総同盟は、全ての労働者に開かれるよりも熟練労働者に焦点を当てた。ゴンパーズの目的は「純粋で単純」であり、賃金を増やし、労働時間を減らし、労働環境を改善することだった。このようにして初期の労働指導者たちが信奉した社会主義的見解から距離を置かせることに成功した。アメリカ労働総同盟は国内で次第に認められた組織にはなっていったが、未熟練労働者については何もできなかった。 未熟練労働者の目標というものは企業経営者の認めたがらないものであり、アメリカ合衆国の歴史の中でも最も激しい労働争議の幾つかに繋がった。そのうちの最初のものが1877年の鉄道大ストライキであり、国中の鉄道労働者が経営者の賃金10%カットに反応してストライキを行った。スト破りを行ったことでボルティモア、シカゴ、ピッツバーグ、バッファロー、およびサンフランシスコなど幾つかの都市で流血を伴う暴動に繋がった。 1886年、シカゴのマコーミック収穫機会社でのストライキ中に、警官に撃たれて2人の労働者が死んだことに対する抗議を呼びかけた集会を追い散らそうとした警官に誰かが爆弾を投げた。これはヘイマーケット暴動と呼ばれた。ヘイマーケットでは11人が死亡し、数多くの者が負傷した。 次に1892年に、ペンシルベニア州ホームステッドのカーネギーの製鋼所で暴動が起こった。製鉄、製鋼および製錫労働者の合同組織による激しいストライキを破るために会社側が雇ったピンカートン探偵社の300人が銃で撃たれ、10人が死亡した。その結果、ストライキに参加している労働者を鎮めるために州兵の出動が要請された。非組合労働者が雇用され、ストライキは破られた。ホームステッド工場は1937年まで労働組合を完全に禁止した。 その2年後、シカゴ郊外のプルマン・パレス自動車会社が賃金をカットしたことでストライキが始まり、アメリカ鉄道組合の支援もあって、間もなく全国の鉄道産業が止まった。この時代の常としてグロバー・クリーブランド大統領が指導する連邦政府は経営側についた。アメリカ合衆国司法長官のリチャード・オルニーは、自身が元鉄道会社の弁護士であり、鉄道を運行させる目的で3,000人以上の労働者を代理雇用させた。これに続いて連邦裁判所が列車の運行を組合が妨害することに対して差し止め命令を出した。労働者たちが鉄道会社や連邦政府の動きに対して屈服を拒んだとき、クリーブランドは再度連邦軍を派遣した。最後はストライキが破られた。 当時最も戦闘的な労働者階級の組織は世界産業労働組合だった。西部の鉱業地帯でより良い労働条件を求めて戦っている組合が集まって結成されたものであり、通常「ウォブリーズ」と呼ばれたこの組合は、その扇動的かる革命的な言葉遣いから特別の注目を浴びた。ウォブリーズは公然と階級闘争を呼びかけ、1912年にマサチューセッツ州ローレンスでの繊維産業ストライキ(通常「パンと薔薇」のストライキと呼ばれる)で艱難辛苦した後に勝利を収めてから多くの支持者を集めた。
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