国際ゴシックとは? わかりやすく解説

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国際ゴシック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/19 08:08 UTC 版)

シモーネ・マルティーニ「受胎告知」部分(フィレンツェウフィッツィ美術館蔵)。

国際ゴシック(こくさいゴシック)は、ゴシック美術のうち、14世紀後半から15世紀前半にかけてブルゴーニュ、フランス、北イタリアで発達した様式を指す[1]。その後、この様式が西ヨーロッパ全域に広がっていったことから、19世紀末にフランスの美術史家ルイ・クラジョ(en)によって「国際ゴシック」と名付けられた[2][注 1]

この様式は、ドイツ語で weicher Stil すなわち「柔和様式」と呼ばれていることに窺えるが、宮廷文化(文学における宮廷恋愛など)の影響を受けている。国際ゴシックは聖母など宗教的題材における表現の深化を特徴としており、このことは、原色を積極的に盛り込むことで従前よりも鮮やかなものとなった色づかいや、全体に縦に引き伸ばされ先行のゴシック様式よりも静的かつ厳粛なフォルムに改まった人物造形、細部の非常に緻密な描写(たとえば着物の生地やドレープなど)、動植物をはじめとする自然のつぶさな観察に表れている。一方、国際ゴシックはこの時代の不安を反映してある種の陰鬱さに突き動かされたものともなっており、なまなましい死の表現に執着がみられる。また、国際ゴシックは教会美術以外へも進出していき、その享受者は宮廷に伺候する社会の上層であったが、彼らは15世紀に勃興した都市住民の注文を取り次ぐこともできた(貴族に加えて商人も美術品を楽しむようになった)。

芸術家が各地を移動したのはもちろんのこと、装飾写本など持ち運びの可能な作品も欧州全土を巡り、王侯と上級貴族に各地で共通する美意識を形成した。写本は運搬も容易であるため、国際ゴシック様式の普及に果たした役割は大きい。そのためこうした宮廷のエリートに向けて作られた作品には国ごとの多様性はあまり見られない。国際ゴシックの主要な流行源は、北フランス、ブルゴーニュ公国プラハ神聖ローマ皇帝カール4世の宮廷が置かれていた)、イタリアである。イングランド国王リチャード2世ボヘミア王女アンとの結婚など、王侯の結婚はこの様式の拡大を助けた。

国際ゴシックはもともとは宮廷的洗練を有する様式だったが、勃興しつつあった商人階級や中小貴族の依頼になるものはいくぶん粗野であった。北ヨーロッパでは、「後期ゴシック」としてのこの様式は特に装飾要素で用いられつづけ、16世紀初期にも依然としてみることができる。結局装飾表現ではとってかわられることがないままルネサンス美術にいたった。国際ゴシックという術語は美術史家の間でもいくらか用法に幅があり、この語の利用が避けられることもある[3]。国際ゴシックという術語は「多くの場合(中略)あまり役に立たないが、というのも差異や変遷の詳細を誤魔化してしまいがちだからである」[4]とする評も存在する。

展開

国際ゴシックは、一般にアヴィニョンの教皇庁などで活躍したシエナ派の活動がきっかけで広まったとされることが多い[5]シエナ派は、北方のゴシック様式とイタリアジョットらの芸術を融合し、繊細な宗教画を描いた。中でもマルティーニ(1285年? - 1344年)はシエナ市庁舎壁画の聖母像(1315年)や受胎告知(1333年)を描き、また1340年からアヴィニョンに招かれて、当時ここに置かれていた教皇庁新宮殿建設の仕事に従事した。アヴィニョンの教皇庁には各国から多くの画家が訪れており、活発な交流が行われた。やがて14世紀後半から15世紀にかけて、ヨーロッパ各国の宮廷(北フランスフランドル、プラハ、カタルーニャなど)やアヴィニョン教皇庁を中心に、共通した様式の絵画が流行するようになった。特にプラハ神聖ローマ帝国皇帝のカール4世(1347年 - 1378年)の本拠として、整備が進められた。

絵画

ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ「東方三博士の礼拝」(フィレンツェ・ウフィッツィ美術館蔵)。
ピサネロ「聖エウスタキウスの幻視」(ロンドン・ナショナルギャラリー蔵)。
ランブール兄弟ベリー公のいとも豪華なる時祷書」5月(シャンティイ城コンデ美術館図書館蔵)。

イタリア

カタロニア

フランス・フランドル

イギリス

ドイツ・ベーメン

ギャラリー

ルネサンスとの関係

イタリアではフィレンツェを中心にルネサンス美術が華開きつつあったが、ファブリアーノはフィレンツェで「東方三博士の礼拝」(1423年)を描いており、同時代的な現象であった。

注釈

  1. ^ クラジョがこの術語を導入したのは、もともとはルネサンスのルーツがフランスにあることを主張するためだったようである。

脚注

  1. ^ Ingo F. Walther, Robert Shia Lebouf Wundram, Masterpieces of Western Art: A History of Art in 900 Individual Studies from the Gothic to the Present Day, Taschen, 2002, ISBN 3-8228-1825-9
  2. ^ Thomas, 8
  3. ^ WGA: Definition of the International Gothic style
  4. ^ Syson and Gordon, 58
  5. ^ 「西洋美術史」美術出版社、1990年

関連項目


国際ゴシック

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/04 15:46 UTC 版)

ルネサンス期のイタリア絵画」の記事における「国際ゴシック」の解説

14世紀後半トスカーナ地方絵画作品は国際ゴシックが主流となっていた。ピエトロとアンブロージョのロレンツェッティ兄弟作品好例で、様式化された美しく上品な人物像衣服のひだの表現など後期ゴシック様式優雅さを見ることができる。この国際ゴシックの発展寄与したのはシモーネ・マルティーニジェンティーレ・ダ・ファブリアーノで、優美深みのある詳細描写と、ジョット解剖学的に写実的な人物表現とは正反対の、理想化され人物描写特徴がある。 15世紀前半に、国際ゴシック絵画ルネサンス絵画橋渡し役と言えるフラ・アンジェリコ登場するフラ・アンジェリコ描いたテンペラ祭壇画にはゴシック様式多用され金箔鮮やかな色使いがある。その一方で自身属していたサン・マルコ修道院フレスコ壁画からは、フラ・アンジェリコジョット写実主義に強い影響受けていることが見てとれる。これらのフレスコ宗教画は、フラ・アンジェリコ修道院居住する修道士のために小部屋廊下装飾として描いたものであり、そのモチーフとしてキリスト生涯、とくに「キリスト磔刑」多く選ばれている。どの作品少な色使い彩色されシンプルな絵画で、フラ・アンジェリコ写実表現用いて精神的内面描写達成しようとする強い意思を見ることができる。

※この「国際ゴシック」の解説は、「ルネサンス期のイタリア絵画」の解説の一部です。
「国際ゴシック」を含む「ルネサンス期のイタリア絵画」の記事については、「ルネサンス期のイタリア絵画」の概要を参照ください。

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