美術商
美術商
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/13 18:52 UTC 版)
6歳で北京から東京へ一家で転居し、父繭山松太郎が最終的な家業の拠点と定めた京橋の地に順吉自身も終生暮らすこととなる。旧制中学・第一東京市立中学校卒業後、1931年(昭和6年)家業の古美術商繭山龍泉堂に入店する意思を固める。ひとつ屋根の下、数名の店員と寝食を共にして、父である繭山松太郎を「だんな」、母を「おかみさん」と呼ぶ修業生活が始まった。北京・上海・広東・香港などの仕入れに同行し中国の陶磁器の商売を学ぶ下積み生活は父松太郎の逝去まで続いた。 1935年(昭和10年)、順吉21歳の時に父が急逝。それまでは父に同行していた中国の取引先へ単身向かうと、現地の同業者による歓迎会が催されるほどの歓待を受け、公平に仕入れの機会が与えられた。「北京かよい」と言われる当時の美術品取引が継続可能となり、繭山順吉は事業継承者の自覚を強くした。志と行動力を受け入れ、一人前として扱い、平等に仕入れをさせてくれた多くの中国の同業者に感銘を受けた。この体験は、出身国籍や年齢を含めた立場の違いに関わらず、商品に向き合う者に対して隔たりなく接する美術商・繭山順吉の姿勢の源である。その姿勢は、同業者や得意先、研究者への言動、及び、後年の東京美術倶楽部・東京美術商協同組合での同業者交換会に参加運営するにあたっての考え方に至るまで、全ての言動の軸となっていった。この時期には定窯白磁刻花蓮弁文輪花鉢、白定金彩瑞花文碗、紅定金銀彩牡丹文鉢等の中国の陶磁器を取り扱った。 繭山順吉の京橋での商売が軌道に乗り、東京から北京へ定期的に仕入れに出かけるようになった1940年(昭和15年)、北京で出逢った越智敏恵と、東京で結婚、2児の父となる。その後1943年(昭和18年)4月、出征。家族と店を日本に残して、かつて美術商として訪れていた中国大陸のその地に、戦場として足を踏み入れることとなった。
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美術商
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「アサシン クリード II」の記事における「美術商」の解説
様々な絵画を購入することができる。購入した絵はモンテリジョーニに飾られ、モンテリジョーニの資産価値を上げる事ができる。また、宝の地図も販売しており、購入するとその街の全ての宝箱の位置がマップに表示される。
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