研究者へ
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「アンドレイ・サハロフ」の記事における「研究者へ」の解説
独ソ戦のため、トルクメン共和国(現在のトルクメニスタン)のアシハバードに疎開する。その後、ウリヤノフスクに移り、研究生活を送る。1945年モスクワに戻り、ソ連科学アカデミー・レベデフ物理学研究所の理論部門で研究生活を送る。 戦後、宇宙線の研究に着手し、1947年、物理学博士号を授与される。
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研究者へ
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上野の調査で日本列島には洞窟性昆虫の潜在的なポテンシャルが高いことがわかり、1951年に江崎や吉井らと共に日本列島全体を対象とした体系的な洞窟調査のプロジェクトを開始した。このプロジェクトは1955年までの5カ年計画で行われ、発案者の上野や吉井はもちろん、京都大学探検部や全国の大学探検部、協力者らの協力も得て、日本で当時知られていたほぼ全ての鍾乳洞を探検・調査した。 その結果、非常に多数の地下性の動物が採集され、そのほとんどは今までに誰も見たことがない、新種などの未記載種であった。 得られた標本は各分野の専門家に分類学上の検討を依頼し、その結果それらの分類群を記載する多くの論文が発表された。発表された論文には、調査の発案者である上野を冠して、学名や和名への献名が相次いだ。 その後も上野はチビゴミムシや洞窟性の動物相の分類学的研究を継続し、多数の論文を執筆していく。 1960年(昭和35年)、上野は京都大学大学院理学研究科博士課程を終了、理学博士の学位を取得する。 博士論文は「日本のチビゴミムシ類 : 特に洞窟種の問題について」(The trechids of Japan, with special reference to the problem of cave fauna)で、5000ページを超える大作であった。あまりの厚さのため、そのままでの論文出版はできず、多数の論文に分割して学会誌に掲載された。 博士号取得後、1962年(昭和37年)まで京都大学で研究を継続した。
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