研究者レベルの素養
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 04:44 UTC 版)
研究者レベルの素養に関しては、天才性や独創性、あるいは奇人変人であることなどの、さまざまなステレオタイプの議論があるが、実際のところは、このような議論は、余り正しくない。研究者レベルの素養に関しては、一概に言えないが、いくつかよく言われることを列挙する。下記のことができるために必要な素養は、概ね、上記の素養と一致すると考えてよい。 自分で研究テーマを定めることができるか? 研究テーマを検証可能な問題にブレークダウン出来るか? 自分で実験手順を定めることができるか? 自分の実験結果に自信が持てるか? 上記1-2は、研究戦略のレベルである。3は、戦術のレベルである。一般に、研究には、研究テーマ全体を貫く一つあるいは複数の疑問、即ち、「リサーチクエスチョン」が存在する。 リサーチクエスチョンをどのように見つけ出すかは、一概にはいえず、個々の研究に依存する。殆どすべての素人の素朴な疑問、例えば「どうすれば頭が良くなるか」、「どうすれば長生きできるか」、「木星に旅行するにはどうすればよいのか」、「鉄を金に変えるには」などといった疑問は、ほとんどすべて、壮大な研究テーマとなり得る。しかし、大半が、現代の人類の英知全てを結集しても、手がかりすら簡単には掴めない夢物語でもある。こういった夢は、確かにモチベーションの維持という観点では需要である。しかし、現実的かつ健全に科学的課題に取り組む上では、このようなテーマそのものを正面から扱うのは、「世界征服をしたい」、「宇宙の帝王になりたい」というのと同じぐらい、不毛である。何故ならば、少なくとも、検証可能な問題にブレークダウンして、実験手順を定めることが出来なければ、実験すら行えず、したがって、部分的な結果すら得られないからである。 実験手順を定めて実験することがほぼ不可能な、身の丈に合わない本質論を論じたがる人間を「本質病」と揶揄する言い方がある(学界の俗語)。本質病という言い方がいつごろから言われるようになったかは定かではないが、少なくとも武谷三男の諸著作においては、本質論ばかりやりたがる“エリート”研究者への批判がいくつか書かれている。本質病を脱却できないと、研究者として、研究業績を出すことは難しいといわれるように、本質病は、挫折の一つの原因である。 そこで、自分の検証可能な問題(「何をどうやって調べるか」)にブレークダウン出来そうな問題を探すという考え方に到達することができる。一つのオーソドックスなやり方は、「誰かがある方法で銅について研究したので鉄で同じ方法を試してみよう」「誰かが、ある方法で牛について研究したので豚で同じ方法を試してみよう」といった具合に過去の研究の実験条件の一つを変えて、どのように結果が変化するかを調べる、より一般には「系や手段を変えて比較する」ことで研究テーマを見つける方法である。このような方法は、自嘲や、軽蔑を込めて「銅鉄研究」、「牛豚研究」、「論文倍増計画」等といわれることがある。確かに、「銅を鉄に変えて比較するときに何に着目すべきか」、「何故、豚を選んだのか」といった意識もなくこのような方法をとっていては、成長はないかもしれないが、どのような研究でも、「系や手段を変えて比較する」という要素を欠くことはできないため、研究の進め方の基礎基本は身に付く。また、このようなやり方を取ることで、実験手法や実験手技を身に付けられるため、極めて複雑な実験計画を立てなければならないある程度大きな研究テーマに対しても取り組めるようになる。 別の側面から従って真に新しい装置、実験手法を発明するというのは、極めて大変なことで、原理、装置構成、精度、製造方法など、ありとあらゆる事柄に対して、深い考察が必要となる。したがって真に新しい装置、実験手法に対しては、ノーベル賞が与えられることもよくある(走査型トンネル顕微鏡、PCR法等)。装置や手法の改良一つとっても、極めて大変な作業で、少なくとも計測器メーカや試薬メーカの技術者、研究者の大半は、この問題に殆どすべてをつぎ込んでいるといっても過言ではない。計測器メーカや試薬メーカと研究機関の分業により、最近では、様々な計測装置、試薬キットが、お金を出せば買えるようになってきているが、それでも一つの実験系を組み立てるという行為は相当の力量と、労力と、資金と、センスが必要となる。さらに、装置や試薬の最適条件、適用範囲等を深く考察すること(基礎検討)や、装置や試薬の構成、成分、原理を理解するだけでも大変な行為である。したがって、凡人であれば再現実験や、銅鉄研究をある程度やって、実験系に対する感覚をつかんでおかないと、新しい測定原理や測定方法、真に新しい使い方どころか、マニュアル通りの実験すらままならないのは言うまでもない。 注意すべきはCell,Nature,Science級の論文といっても例えばPCRとブロッティングといったお決まりの方法以外の方法は使っていないなどという論文は多数あるという事実である。原理としては新しくなくても精度を飛躍的に上げるなり、調べる対象が、研究の進展に重要な意味を与えるものであれば研究としての価値は極めて高いということになる。したがって、人によっては、新しい手法を発明することなく、「何を調べるか」だけで、一流の研究ができている場合もある。例えばある系で成功した手法を、別の系に適応した場合、まったく予想できないようなことが起こることがある。こういう場合に、何故予想ができないことが起こったのかを考察することでまったく新しい学問的地平が拓かれることがある。 4は実践のレベルである。この部分の不安を解消出来なければ、大胆な仮説の構築や、大テーマの検証などあり得ない。従って、研究者としての技能や資質を語る上で、決して欠いてはならない部分である。 大学院生など研究に不慣れな者は、手技に不慣れであることから、実験結果の信頼性に問題がある場合、あるいは実際には問題がないにせよ自信が持てない場合などがあり、不安定な土台の上に積み木を積んでいる如く、技術的にも自分に自信が持てないため、どんな結果が出てもなかなかそれを信じることができないことがある。実際、仮に予想外の結果が出ても、「もしかしたら試薬の入れ忘れ、入れ間違いかも知れない」ということを毎回考えなければならないとするならば実験の面白さは半減するだろうと。このような不安と自信のなさが、セミプロレベルでの研究の面白さを失わせる大きな要因だと思われる。 このような不安をなくすためには、手技的に習熟するのは当然として、手技以前にどのくらいミスやブレをなくすことができるかを徹底的に考えるも大切である。このような考察には、抜群の想像力が要求されると考えられている。この点に関して、九州大学の中山敬一教授は、「チューブの並べ方やチップの使う順番(のような極めて簡単なことまで)まで理屈を持って決めていました。そこに流れている思想を読み取って欲しいと思います。」と述べている。このように、一流の実験家は、実験装置をどの順番で使うのがベストであるだとか、どのようなサインが出た場合には何がどのように影響している場合があり、それはどのようにすれば排除できるのかといったことまで理路整然と把握している。
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