研究者への道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/22 06:30 UTC 版)
母の没後、溝尻は約1年間郷里に留まり、宮津水産講習所で兵站品の缶詰製造の仕事に就いた。そんな折、プレス器でできた缶の内側が反射する太陽光に着目した溝尻は、1907年(明治40年)に24歳でふたたび上京すると、東京物理学校に復学、農商務省にも復職して、これを研究テーマとした。 1909年(明治42年)に東京物理学校師範化科を卒業。1911年(明治44年)に舞鶴海軍造兵部の電気工場で働くなかで、反射鏡に関する研究に没頭し、1916年(大正5年)5月、当時世界一の反射鏡と謳われたサーチライトの発明により、海軍大臣の表彰や叙勲、昭和天皇の視察を受けるに至る。この年、溝尻はキリスト教に入信した。 1919年(大正8年)、海軍を退官すると、日本光機工業株式会社に入社し、技師、第三工場長を務めながら、海軍の委託したガラスの研究に没頭する。1923年(大正12年)には自宅を新築してガラス屋根の温室のような実験室を作り、1925年(大正14年)5月にはついに会社を辞め、溝尻光学工業所を創業した。 1927年(昭和2年)、後藤新平の後押しを受けて、自ら「フレキシブルミラー」と名付けた可撓牲反射鏡による太陽熱の集熱装置を試作し、東京や京都の博覧会場に出展する。これが、世界初の太陽炉であった。 1932年(昭和17年)に59歳で会社経営を後継者に託した後も、溝尻は社の相談役となり研究を続けたが、1945年(昭和20年)5月に会社自宅ともに空襲を受け、研究設備の一切を失った。9月には郷里である浜詰村に疎開し、海岸の京都府立第一高等女学校の臨海学舎の一部を借りて居住した。
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