不本意な就職
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 03:48 UTC 版)
いざとなれば英語教師で食べて行けると考えて英文科に入学したにもかかわらず、教職課程の単位の一つを「意図的に」取り損ねたため、公立校の教員になることができなかった。唯一採用の口があった私立高校は校内暴力の評判があったため、就職を辞退。マスコミ関係への就職を望み、讀賣新聞社や光文社、さらにスポーツ新聞社や映画会社の入社試験を受けたが、空前の就職難時代だったのでことごとく失敗。三省堂に英語辞書の校正係として採用される話はほぼ決まりかけたが、直前で不採用になった。飯島小平教授に研究者への道を勧められ、小林自身も早稲田大学に残ってヘンリー・フィールディングを研究する希望を持っていたが、大学時代に父を結核で亡くしていたうえ、日本橋の実家の土地を騙し取られていたことによる生活苦もあり、不本意ながらセールスマンとして叔父経営の塗料会社に就職、鬱屈した日々を送る。気晴らしに推理小説、昭和初期の大衆文学を読む。 1956年6月、横浜市中区矢口台に転居し、日英混血の母方の親類が米兵相手に営んでいた貸家会社・有限会社レオポルド&サンに勤務。エルビス・プレスリーを聞き、衝撃を受ける。このころの体験は、後年の純文学長篇『汚れた土地』、中篇「丘の一族」に反映されている。同じころ、400枚のユーモア本格ミステリを江戸川乱歩賞に応募して落選。 駐留軍の縮小という時代の流れの中で会社が経営不振に陥り、不渡り手形を出したうえ、社内の派閥抗争に巻き込まれて社長から暴行を受け、1958年7月に失職。失業保険を受給しつつ職安に通う毎日を送る。一度は浜松の航空自衛隊の英語教師の口を紹介されたこともあるが、再軍備反対論者として辞退。 1958年9月「大学院を受験する」と身分を偽って池袋の学生下宿に潜り込み、ここに逼塞して江戸川乱歩が社主の推理小説雑誌『宝石』に「雑誌の改善案」を投稿する。先の見通しが立たず、しばしば自殺を考えた。
※この「不本意な就職」の解説は、「小林信彦」の解説の一部です。
「不本意な就職」を含む「小林信彦」の記事については、「小林信彦」の概要を参照ください。
- 不本意な就職のページへのリンク