不本意な引退~晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 09:15 UTC 版)
「大木戸森右エ門」の記事における「不本意な引退~晩年」の解説
しかし、公認横綱として最初の本場所である1913年1月は5勝3敗2休と振るわず、同年4月に呉で開催された東京大坂合併興行では、東京相撲の伊勢ノ濱慶太郎との取組中にめまいがしたという。さらに明るい場所で電気を付けようとしたために眼科へ担ぎ込まれ、さらに呉海軍病院で検査を受けたところ、脳溢血と判明した。すぐに手術を行って一命は取り留めたが半身不随になってしまい、このような状態では現役続行など出来る筈が無いため、同年5月場所と1914年1月場所を全休したのを最後に現役を引退した。 引退後は頭取(年寄)・湊を襲名したが、病身で引退相撲も横綱らしからぬものになってしまい、健康面の改善も見られないことで親方としての職務にも支障があったため、1916年6月に廃業した。晩年は「横綱屋」という居酒屋を経営、また煙草の売店を営み細々と生活していたと伝わっており、1930年11月7日に脳卒中で死去、54歳没。死の直前には大阪医科大学附属医院に自身の解剖を申し出、遺骸は同院に献体された。大木戸には最期まで身寄りが存在せず、墓の場所は現在でも判明していない。
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