親方として
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その後名跡を勝ノ浦(伊勢ノ海親方所有の借株)に変更し井筒部屋の部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1997年(平成9年)12月に陸奥親方(元前14・星岩涛)の退職を受け、陸奥に名跡変更(年寄株取得)するとともに陸奥部屋を継承した。2000年(平成12年)11月には立田川親方(元関脇・青ノ里)が停年退職した際に、立田川部屋を吸収している。2010年1月場所までは審判部に所属しており、幕内の取組で勝負審判を務めることも多かった。2010年2月より日本相撲協会理事を務めるが、2011年4月に弟子の八百長問題の影響を受けて委員に降格となった。部屋継承後は子飼いの霧の若(のちプロレスラーの将軍岡本)が十両、霧馬山が幕内に昇進している。 2019年(平成31年)2月12日、同年4月3日に60歳を迎える陸奥親方の還暦を祝うパーティーが開催され、小錦らを始めとする200人が参加。壇上で赤い羽織を着て「恥ずかしいし、不思議な感じ」と照れ笑いを浮かべながらも、「日本相撲協会の停年まで残り5年。時間がある限り、今後も一生懸命指導していく」と改めて情熱を燃やしていた。 かつて井筒部屋の弟弟子だった14代井筒(元関脇:逆鉾)が、2019年(令和元年)9月場所中に58歳で病死したことに伴い、本家の井筒部屋から横綱鶴竜ら3力士及び床山1名を自らの陸奥部屋に転籍させて指導することとなった。現役時代から井筒との仲が良くなかったためこの移籍は意外であるとする報道も存在する。 陸奥部屋は10代井筒の逝去時に井筒部屋を継承した11代が、10代の遺族との仲違いにより名跡を変更したものである一方、井筒部屋は10代の逝去時に後継者問題で独立した君ヶ濱部屋が名跡を変更して再興したものという経緯があることから、10代逝去時に分裂した系統が時を経て再合流する形になった。 2022年(令和4年)3月、先述の理事辞任以来11年ぶりに日本相撲協会の理事に復帰し、協会ナンバー2の事業部長に就任した。この事業部長就任は八角理事長と気心が知れている仲とは言えど些か意外の念を以って報じられた。
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親方として
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1982年(昭和57年)、人格者として知られていた大鵬は、「世界人道者賞」を受賞した。この賞は日本では余り知られていないが、ローマ法王などが受賞した世界的に重要な賞である。 大鵬部屋創設から日が浅かった頃、大鵬はベンツでちゃんこの材料の仕入れを行っていた。 露鵬の大麻問題では同じく渦中に巻き込まれた北の湖理事長と対応を協議する事態となっていた。最終的には、自分の後継者で娘婿でもある大嶽が責任を問われて相撲協会の委員から平年寄への2階級降格処分を受け、北の湖親方も理事長辞任となった。自身もそれと前後して相撲博物館館長を辞職している。 かつては第68代横綱・朝青龍明徳のよき相談役として知られ、相手次第で取り口を変える自身のような万能型の大横綱の道を歩みつつある朝青龍を厳しく、かつ温かく見守っていた。朝青龍の謹慎問題などで批判されがちの角界で、OBとして発言力を持つ一人でもあった。しかし朝青龍は、2005年(平成17年)に7場所連続優勝・年6場所完全制覇・年間最多勝の更新(84勝)の新記録を達成した辺りから、大鵬の元へ相談に来ることが無くなったという。そして結局、朝青龍は度重なるトラブルに責任を取る形で、2010年(平成22年)1月場所後に現役引退せざるを得なくなってしまった。 大鵬は引退会見を見て「会見で謝罪なく腹立たしい」と憤慨していた。朝青龍の現役時代のある時、講演での質疑応答で力士の所作やマナーについて質問があったが、朝青龍にこのことを電話すると「いやあ、そんなものは(現役を)辞めるころになったらうまくなりますよ」と朝青龍本人は返事した。これがきっかけで大鵬も朝青龍を見捨てたという。 2004年、大鵬部屋は三女の夫であった貴闘力(16代大嶽)が継承し、大嶽部屋と改称したが、部屋の運営は一緒にやっていたようなものであったため、よくぶつかっていたという。 貴乃花が二所ノ関一門の反対を押し切って強行出馬し初当選を果たしたいわゆる「貴の乱」では、大きな役割を果たした。「二所ノ関一門が(貴乃花親方を)破門にすると言ってきた。私に言わせれば『何を言ってるんだ』と。自分のことだけを考えてやるのはダメなんだ。協会の将来とか全体を、いろんなことを考えていかないといけない」として出馬に「GOサイン」を出した。理事選の夜、貴乃花は自らのグループの親方を率いて大鵬宅を訪れ、当選を報告した 。 亡くなるまで日刊スポーツの相撲担当評論家を務め、本場所開催中(奇数日目)は同誌に解説「土評」を連載していた(偶数日目は高砂浦五郎の「大ちゃん 大分析」)。 二所ノ関部屋消滅問題では「時代の流れでは致し方無いだろうが、今一度部屋再興を望みたい」と談話を発表した。
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親方として
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1974年3月場所を最後に現役を引退し、年寄・高田川を襲名するとともに高砂部屋から独立して高田川部屋を新設した。小結前乃臻(後に前乃森と改名)、剣晃、幕内鬼雷砲らを育てるなど順風満帆ではあったが、1998年1月には周囲の反対を押し切り相撲協会の理事に立候補したため、当時所属していた高砂一門から破門され無所属となった。さらに同年3月には後継者に指名していた剣晃が、汎血球減少症による肺出血という奇病のため、現役中にわずか30歳で早逝という悲運に見舞われた。 1999年以降関取が不在で低迷していた時期も長かったが、2004年には貴乃花部屋から千田川親方(元関脇安芸乃島)が移籍。自ら弟子たちに胸を出す千田川の熱心な指導の甲斐もあり、2005年9月場所には大雷童が十両に昇進し、久しぶりに関取が復活した。弟子たちが相次いで師匠前の山の現役時代の名「太郎」を名乗り注目を集めている。 協会では、2期4年理事を務めたが、北の湖理事長就任が確実視されると理事立候補を止め、役員待遇に勇退する形で北の湖体制を支えた。境川理事長が推進した協会自主興行制の巡業には一貫して反発。勧進元制巡業に戻した北の湖理事長は、この経緯を買い、巡業の活性化を期待して高田川を2006年に異例の契約推進担当副部長に据えた。2007年の夏巡業で北海道での興行が復活するなど、手腕を発揮した。 2009年8月5日に千田川と年寄名跡を交換する形で部屋を譲った。2010年3月8日に日本相撲協会を停年退職した。 2021年3月11日に多臓器不全のため死去。76歳没。日本相撲協会は29日に前の山の死去を発表した。葬儀は家族葬で行われた。 現役時代は富士櫻の兄弟子として稽古を付け、部屋持ち時代末期には竜電の師匠を務めた。両者は甲府市の郷土力士であり、いわばこの2人を繋ぐ元大関であった。
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親方として
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芝田山襲名後、しばらくは放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていたが、引退8年後の1999年6月に独立して「芝田山部屋」を創設。横綱・大関経験者が引退・年寄名跡襲名後も部屋付き親方として長期間在籍した後、独立・部屋創設に至ったことは非常に珍しい。 師匠の放駒親方同様、「社会に通用する人間であれ」を親方としての信条としている。地位に見合った人徳、品格がないと力士としては一人前とは言えないという考え方に基づき、新潟県十日町の後援者から田んぼを借り、一から米作りを体験させることで、体づくりとともに、食べ物を粗末にしない教育をしている。目的は、弟子たちに米が出来る過程にある大変さを知ってもらい、米一粒の大事さ、一粒一粒が重なって初めて、どんぶり一杯のごはんになることを学んでほしい、それが毎日の稽古の積み重ね、地味で地道な練習の積み重ねが力になることに通じるからという考えからである。自身が農業を営んでいた実家の酪農設備を新築するために両親が借り入れた約2000万円の借入金を代わりに返済し、実家の近所でも「孝行息子」と言われていたことから、農業に対する思いが強く、弟子の教育に取り入れた。 また、部屋の弟子たちを連れて毎年夏に故郷・芽室町で合宿をするのに合わせて、老人ホームや障害者支援施設を慰問し、子供たちの心と身体の健全育成を目的に芽室神社前の土俵で、「芝田山杯子供相撲大会」を毎年8月に実施している。 相撲取りとしての理想は、「穏やかで柔和な表情の下に闘志を隠して、ここぞというときに勝負をかける」と述べている。弟子には、「いろいろな事情があって、辛抱や努力をしたくても出来ない人だっている。相撲取りにしても、誰でもなれるわけではない。心底から相撲取りになりたいと思っても、なれない人はたくさんいる。だから、五体満足で相撲を取れる今の自分に感謝して、前向きに一生懸命努力しなさい。全力でぶつかっていけば、自分の体にも強くなる力が入ってくる。跳ね飛ばされても恐れず、立ち向かう姿勢が大事。」と、自分が若い頃の稽古を通じて学んだ話をするという。 相撲協会の業務では監察委員や勝負審判などを歴任した後に、2014年に副理事に昇格、巡業部副部長、さらに広報部副部長となった。巡業でちゃんこが廃止されたことで巡業中における力士の食事がおざなりとなり、健康管理が憂慮されるようになったことから、巡業の食を管理する“食事係”の設置も検討したことがある。2015年8月3日から始まった夏巡業では、21年ぶりに巡業でのちゃんこ配給を復活させた。これは相撲人気の回復によって夏巡業開催日数も前年の9日から20日に倍増し、力士の体力負担を補うという目的もあった。この主導に当たって芝田山は「弁当だけじゃ飽きるしね。ちゃんこは栄養バランスもいいから」と説明している。 2018年2月2日の日本相撲協会理事選挙に立候補し初当選、3月30日の職務分掌で広報部長に就任した。 5月29日午前、大相撲の「女人禁制」に関する参議院文教科学委員会の参考人質疑に出席。「公益法人として説明責任がある。(協会は)女性差別をしていない」と説明した。 2020年1月30日の役員候補選は定員を超過しなかったため2008年以来6期12年ぶりに無投票となり、芝田山を含めた理事候補10人、副理事候補3人が全員当選し、同年3月23日の評議員会で正式に理事として選任。再任後はこれまでの広報部長に加え、総合企画部長を兼務することが発表された。 2020年3月、2019新型コロナウイルス感染拡大防止のため、史上初の無観客試合となった春場所で、「無観客開催運営プロジェクトチーム」のリーダーとして、毎日各担当部署の関係者を集め、どんなささいなことも話し合い、情報が回るように徹底した。感染者を出さないため親方衆専用の入口を設置し、世話人が明け荷を運ぶ動線も何度もシミュレーション、タクシーの待機場所や方向など、密集による接触や混乱を回避する方法を考え抜き、大きなトラブルを防いだ。 新型コロナウイルス感染拡大が広まる中、その後の対応の協議の方法としてのインターネット電話などの導入も進んでいないことから、対応の遅れを指摘する報道もあった。広報部長である自身がインターネットを使わず電話で取材を受けていることもインターネット導入の遅れの例に出されている。 勝武士幹士の死去に際しては広報部長として「私としてもなんとか心の中で回復してくれという思いでいっぱいだった。うちの部屋にも同期の弟子がいるんですが、非常に残念な思いです」とコメントを残した。 5月29日、7月場所の開催に関しては「まず無観客が目標」と広報部長として見解を示した。 7月30日、新弟子のスカウト活動などを念頭に、協会員の原則的な外出禁止を7月場所後に緩和する方針を示唆した。 2021年12月9日、2022年夏に地方巡業を再開する準備を進めていることを明かした。同時点では巡業地は未定だが、2022年1月場所後にも開催の可否を含めて決定する見込みが立った。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 横綱審議委員会稽古総見(両国国技館 2017年5月3日撮影) 同左
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