親方としてとは? わかりやすく解説

親方として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 04:10 UTC 版)

霧島一博」の記事における「親方として」の解説

その後名跡勝ノ浦伊勢ノ海親方所有借株)に変更し井筒部屋部屋付き親方として後進の指導にあたっていたが、1997年平成9年12月陸奥親方(元前14星岩涛)の退職を受け、陸奥名跡変更年寄株取得)するとともに陸奥部屋継承した2000年平成12年11月には立田川親方(元関脇青ノ里)が停年退職した際に、立田川部屋吸収している。2010年1月場所までは審判部所属しており、幕内取組勝負審判務めることも多かった2010年2月より日本相撲協会理事務めるが、2011年4月弟子八百長問題影響受けて委員降格となった部屋継承後は子飼い霧の若(のちプロレスラー将軍岡本)が十両霧馬山幕内昇進している。 2019年平成31年2月12日同年4月3日60歳迎え陸奥親方還暦を祝うパーティー開催され小錦らを始めとする200人が参加壇上で赤い羽織着て恥ずかしいし、不思議な感じ」と照れ笑い浮かべながらも、「日本相撲協会停年まで残り5年時間ある限り今後一生懸命指導していく」と改め情熱燃やしていた。 かつて井筒部屋弟弟子だった14井筒(元関脇逆鉾)が、2019年令和元年9月場所中に58歳で病死したことに伴い本家井筒部屋から横綱鶴竜ら3力士及び床山1名を自らの陸奥部屋転籍させて指導することとなった現役時代から井筒との仲が良くなかったためこの移籍は意外であるとする報道存在する陸奥部屋10代井筒逝去時井筒部屋継承した11代が、10代遺族との仲違いにより名跡変更したのである一方井筒部屋10代逝去時後継者問題独立した君ヶ濱部屋名跡変更して再興したものとい経緯があることから、10代逝去時分裂した系統が時を経て合流するになった2022年令和4年3月先述理事辞任以来11年ぶりに日本相撲協会理事復帰し協会ナンバー2事業部長就任した。この事業部長就任八角理事長気心知れている仲とは言え些か意外の念を以って報じられた。

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親方として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 02:11 UTC 版)

大鵬幸喜」の記事における「親方として」の解説

1982年昭和57年)、人格者として知られていた大鵬は、「世界人道者賞」を受賞した。この賞は日本では余り知られていないが、ローマ法王などが受賞した世界的に重要な賞である。 大鵬部屋創設から日が浅かった頃、大鵬ベンツちゃんこ材料仕入れ行っていた。 露鵬大麻問題では同じく渦中巻き込まれ北の湖理事長と対応を協議する事態となっていた。最終的には、自分後継者娘婿でもある大嶽責任問われ相撲協会委員から平年寄へ2階降格処分を受け、北の湖親方理事長辞任となった自身もそれと前後して相撲博物館館長辞職している。 かつては68横綱朝青龍明徳のよき相談役として知られ相手次第取り口変える自身のような万能型の大横綱の道を歩みつつある朝青龍厳しく、かつ温かく見守っていた。朝青龍謹慎問題など批判されがちの角界で、OBとして発言力を持つ一人でもあった。しかし朝青龍は、2005年平成17年)に7場所連続優勝・年6場所完全制覇年間最多勝更新84勝)の新記録達成した辺りから、大鵬元へ相談に来ることが無くなったという。そして結局朝青龍度重なるトラブル責任を取る形で、2010年平成22年1月場所後に現役引退せざるを得なくなってしまった。 大鵬引退会見見て会見謝罪なく腹立たしい」と憤慨していた。朝青龍現役時代のある時、講演での質疑応答力士所作マナーについて質問があったが、朝青龍にこのことを電話すると「いやあ、そんなものは(現役を)辞めるころになったらうまくなりますよ」と朝青龍本人返事した。これがきっかけ大鵬朝青龍見捨てたという。 2004年大鵬部屋三女の夫であった貴闘力(16大嶽)が継承し大嶽部屋改称したが、部屋運営一緒にやっていたようなものであったため、よくぶつかっていたという。 貴乃花二所ノ関一門反対押し切って強行出馬し初当選果たしたいわゆる「貴の乱」では、大きな役割果たした。「二所ノ関一門が(貴乃花親方を)破門にすると言ってきた。私に言わせれば『何を言ってるんだ』と。自分のことだけを考えてやるのはダメなんだ。協会将来とか全体を、いろんなことを考えていかないといけない」として出馬に「GOサイン」を出した理事選の夜、貴乃花は自らのグループ親方率いて大鵬宅を訪れ当選報告した亡くなるまで日刊スポーツ相撲担当評論家務め本場所開催中奇数日目)は同誌に解説「土評」を連載していた(偶数日目高砂浦五郎の「大ちゃん分析」)。 二所ノ関部屋消滅問題では「時代流れでは致し方いだろうが、今一度部屋再興望みたい」と談話発表した

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親方として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 15:39 UTC 版)

前の山太郎」の記事における「親方として」の解説

1974年3月場所最後に現役引退し年寄高田川襲名するとともに高砂部屋から独立して高田川部屋新設した。小結前乃臻(後に前乃森改名)、剣晃幕内鬼雷砲らを育てるなど順風満帆ではあったが、1998年1月には周囲反対押し切り相撲協会理事立候補したため、当時所属していた高砂一門から破門され無所属となった。さらに同年3月には後継者指名していた剣晃が、汎血球減少症による肺出血という奇病のため、現役中にわずか30歳早逝という悲運見舞われた。 1999年以降関取不在低迷していた時期長かったが、2004年には貴乃花部屋から千田川親方(元関脇安芸乃島)が移籍。自ら弟子たちに胸を出す千田川の熱心な指導甲斐もあり、2005年9月場所には大雷童十両昇進し久しぶり関取復活した弟子たち相次いで師匠前の山現役時代の名「太郎」を名乗り注目集めている。 協会では、2期4年理事務めたが、北の湖理事長就任確実視されると理事立候補止め役員待遇勇退する形で北の湖体制支えた境川理事長推進した協会自主興行制の巡業には一貫して反発勧進元巡業戻した北の湖理事長は、この経緯を買い、巡業活性化期待して高田川2006年異例契約推進担当副部長据えた2007年夏巡業北海道での興行復活するなど、手腕発揮した2009年8月5日千田川年寄名跡交換する形で部屋譲った2010年3月8日日本相撲協会停年退職した。 2021年3月11日多臓器不全のため死去76歳没。日本相撲協会29日前の山死去発表した葬儀家族葬行われた現役時代富士櫻兄弟子として稽古付け部屋持ち時代末期には竜電師匠務めた両者甲府市郷土力士であり、いわばこの2人を繋ぐ元大関であった

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親方として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 06:40 UTC 版)

大乃国康」の記事における「親方として」の解説

芝田山襲名後、しばらくは放駒部屋部屋付き親方として後進の指導当たっていたが、引退8年後の1999年6月独立して芝田山部屋」を創設横綱・大関経験者引退年寄名跡襲名後も部屋付き親方として長期間在籍した後、独立部屋創設至ったことは非常に珍しい。 師匠放駒親方同様、「社会通用する人間であれ」を親方としての信条としている。地位見合った人徳品格がないと力士として一人前とは言えないという考え方に基づき新潟県十日町後援者から田んぼ借り一から米作り体験させることで、体づくりとともに食べ物粗末にしない教育をしている。目的は、弟子たちに米が出来過程にある大変さ知ってもらい、米一粒大事さ一粒一粒重なって初めて、どんぶり一杯のごはんになることを学んでほしい、それが毎日稽古積み重ね、地味で地道な練習積み重ね力になることに通じるからという考えからである。自身農業営んでいた実家酪農設備新築するために両親借り入れた2000万円借入金代わりに返済し実家近所でも「孝行息子と言われていたことから、農業対す思い強く弟子教育取り入れたまた、部屋弟子たち連れて毎年夏に故郷芽室町合宿をするのに合わせて老人ホーム障害者支援施設慰問し子供たち心と身体の健全育成目的芽室神社前の土俵で、「芝田山子供相撲大会」を毎年8月実施している。 相撲取りとしての理想は、「穏やかで柔和な表情の下に闘志隠してここぞというとき勝負をかける」と述べている。弟子には、「いろいろな事情があって、辛抱努力をしたくても出来ない人だっている。相撲取りにしても誰でもなれるわけではない心底から相撲取りなりたい思っても、なれない人はたくさんいる。だから、五体満足相撲を取れる今の自分感謝して前向きに一生懸命努力しなさい。全力ぶつかっていけば、自分の体にも強くなる力が入ってくる。跳ね飛ばされても恐れず立ち向かう姿勢が大事。」と、自分若い頃稽古通じて学んだ話をするという。 相撲協会業務では監察委員勝負審判などを歴任した後に、2014年副理事昇格巡業副部長、さらに広報部副部長となった巡業ちゃんこ廃止されたことで巡業中における力士食事おざなりとなり、健康管理憂慮されるようになったことから、巡業の食を管理する食事係”の設置検討したことがある2015年8月3日から始まった夏巡業では、21年ぶりに巡業でのちゃんこ配給復活させた。これは相撲人気の回復によって夏巡業開催日数も前年9日から20日倍増し力士の体負担を補うという目的もあった。この主導当たって芝田山は「弁当だけじゃ飽きるしね。ちゃんこ栄養バランスいいから」と説明している。 2018年2月2日日本相撲協会理事選挙立候補し初当選3月30日職務分掌広報部長就任した5月29日午前大相撲の「女人禁制に関する参議院文教科学委員会参考人質疑出席。「公益法人として説明責任がある。(協会は)女性差別をしていない」と説明した2020年1月30日役員候補選は定員超過しなかったため2008年以来6期12年ぶりに無投票となり、芝田山含めた理事候補10人、副理事候補3人が全員当選し同年3月23日評議員会正式に理事として選任再任後はこれまでの広報部長加え総合企画部長を兼務することが発表された。 2020年3月2019新型コロナウイルス感染拡大防止のため、史上初の無観客試合となった春場所で、「無観客開催運営プロジェクトチーム」のリーダーとして、毎日担当部署関係者集め、どんなささいなことも話し合い情報が回るように徹底した感染者出さないため親方衆専用入口設置し世話人明け荷を運ぶ動線何度もシミュレーションタクシー待機場所や方向など、密集による接触混乱回避する方法考え抜き大きなトラブル防いだ新型コロナウイルス感染拡大が広まる中、その後の対応協議方法としてのインターネット電話などの導入進んでいないことから、対応の遅れを指摘する報道もあった。広報部長である自身インターネット使わず電話取材受けていることもインターネット導入の遅れの例に出されている。 勝武士幹士死去に際して広報部長として「私としてもなんとか心の中回復してくれという思いいっぱいだった。うちの部屋にも同期弟子がいるんですが、非常に残念な思いです」とコメント残した5月29日7月場所開催に関しては「まず無観客目標」と広報部長として見解示した7月30日新弟子スカウト活動などを念頭に協会員の原則的外出禁止7月場所後に緩和する方針示唆した2021年12月9日2022年夏地方巡業再開する準備進めていることを明かした同時点では巡業地は未定だが、2022年1月場所後にも開催可否含めて決定する見込み立った。 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} 横綱審議委員会稽古総見両国国技館 2017年5月3日撮影同左

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