親方衆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 23:35 UTC 版)
愛宕山理事長(あたごやま) 声 - 藤本譲 相撲協会理事長。角界の伝統と権威を冒す播磨灘を倒し、引退に追い込もうと執念を燃やすが、初場所編を最後に土俵荒廃の責任を取り、理事長職を辞任した。 相撲とは力と力のぶつかり合いである“強さ”を理念としている。また播磨灘のパフォーマンスは非難するも、播磨灘の横綱としての圧倒的な実力と相撲への気概そのものは認めており、他の相撲部屋が拒絶した道場破りのような播磨灘の出稽古も受け入れた。11月場所から播磨灘に対抗するあまり無理を働いて負傷休場する力士が増え始めたが、自身が現役の時は1日に百番相撲を取って稽古していたことから、「稽古が足らん」「稽古も死ぬ気でやらなければ身がつくか」と断言して対策を打たず、初場所にて幕内上位の力士たちが多数休場に追い込まれたことで、その問題がついに限界まで達し、初場所5目の夜に播磨灘の相手を全員横綱・大関のみにし興行を11日制に変更することを決断するところまで追い込まれた。 初場所千秋楽、土俵上で「相撲協会解散」を宣言した播磨灘に、角界からの追放を言い渡すが、その後の理事会で能登ノ海から「もはや播磨灘抜きで相撲興行は成り立たない」と糾弾される。その翌日、愛宕山は独断で播磨灘を都内の寺に呼び出し、その場での追放取り消しを申し出る。しかし、播磨灘は寺の障子を全部開けさせ、衆人環視の中で大声で申し出を繰り返させた上で、「出直せ!」と張り手を食らわせ、これを一蹴する。その後は自らまわしを締めて弟子に胸を出す。一門の竜鵬に目をつけ北道山に鍛えさせるようお願いした。 モデルは初代若乃花の二子山理事長。 能登ノ海親方(のとのうみ) 能登ノ海一門を率いる角界有力者。初場所終了後に、愛宕山の理事長職を継ぐ。 播磨灘による「相撲協会解散」発言後の7月場所が横綱不在の状態で開催される恐れがあったことから、2横綱を揃えて興行上・番付上の面子を揃える必要を感じた、能登ノ海は場所前に太刀風の引退届慰留と北道山の横綱再昇進を検討したが両者ともこれを固辞した。 そして播磨灘抜きで7月場所(国立で行われた十番勝負に対抗して、本来の名古屋ではなく播磨灘と同じ東京開催)を行うことにより、大相撲の格式、伝統、様式美を守ろうとした。しかも全幕内力士に「『播磨灘十番勝負』に参戦するようなことがあれば、無条件で相撲協会から追放する」と促すほどの念の入れよう。しかし、それでも播磨灘の元へ行く力士が後を絶たなかった。最後は追放宣言を白紙に戻し、理事長職を辞任。後任を太刀風に託した。 相撲とは技と技のぶつかり合いである“しのぎ”を理念としている。また、かなりの野心家。 モデルは元佐田の山の出羽海理事長。 五所ヶ嶽親方(ごしょがたけ) 雷光親方の兄弟子で五所ヶ嶽一門の総帥。播磨灘の弟弟子を預かって欲しいとの雷光の要求を跳ね除けた。 モデルは元琴桜の佐渡ヶ嶽理事。 稲綱親方(いなづな) 大江川の師匠。9月場所で「大江川が(播磨灘に)負けたら廃業」と宣言し、大江川が負けたためにその言葉通りに角界を去った。 11月場所では一個人加山として福岡に赴き、稲綱部屋の宿舎や会場まで足を運んだ。 山藤親方(やまふじ) 天山の師匠。現役時代の四股名は三輪山。元横綱だが稽古中の怪我のため横綱を張っていた時には一回しか優勝できないなど思うように活躍できず、泣きの三輪山、史上最弱の横綱と揶揄されることもあるが、それは怪我が理由であり横綱になった実力があるのに、稽古場での怪我によって本場所が充分に務められなくなったため、不運の横綱とも言われている。そのため、天山には自身の二の轍を踏ませないように注意していた。本人は本場所の土俵で大怪我や死んだとしても、それは力士の本懐であると思っている。 播磨灘の結婚式に弟子の天山と駆けつけ、天山を播磨灘に預けてほしいと頭を下げた。 7月場所では天山が十番勝負に向かおうとしたため力ずくでも阻止しようと竹の棒で天山を滅多打ちした。それでも天山の気持ちが変わらなかったため最終的には「行け!」と認めた。 真砂親方(まさご) 富嶽の師匠。打倒播磨灘のため必殺鯖折りの封印を解くように命じたが、富嶽は播磨灘に敗れる。 7月場所編では富嶽が播磨灘十番勝負に走り、阻止できなかったため能登ノ海に廃業届を提出するが却下された。 秩父親方(ちちぶ) 八幡の師匠で、秩父一門の総帥、現役時代の最高位は関脇。取組編成委員。協会では反主流派とされる。初場所編では、打倒播磨灘のために播磨灘の取組の相手と日にちを決め、愛宕山理事長からの興行短縮が決定した際には他の親方たちからの反対意見が多い中、日程よりも相撲の内容が相撲興行の基本と言いその判断を支持し、愛宕山理事長から大関・横綱の取組順を決めるよう言われた。 羽後ノ海親方(うごのうみ) 三ツ岩の師匠。三ツ岩の適性に反した指導を行い、そのために三ツ岩とは険悪な状態であった。 播磨灘との取組を見て自らの過ちを認め、三ツ岩のスタイルを尊重し、これからの稽古次第であることを伝えたが、当の三ツ岩はけじめとしてマゲを切り、廃業した。
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