横綱として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/28 08:51 UTC 版)
駒ヶ嶽とは関取になる前から並び称されたが、大関争いとなると太刀山の陣営には横綱が大砲万右エ門・梅ヶ谷藤太郎 (2代)、大関も國見山悦吉・荒岩亀之助が存在しており、上が詰まって逆に相手陣営に大関がいないことから先を越された。大砲・荒岩の引退によって、1909年6月場所の両國相撲常設館(旧・両国国技館)の完成とともに大関に昇進する。この場所8日目碇潟に敗れるが、翌日駒ヶ嶽を破ってから、1912年1月場所8日目で2代西ノ海に敗れるまで43連勝(4分2預1休)を記録。この間1910年6月場所と1911年2月場所での連覇で、吉田司家から明治時代で最後となる横綱免許を授与された。1911年2月7日、8日両日は勝負検査役不信任問題のため休業となっていた。 この敗戦後も再び白星を重ね、1913年1月場所・1915年1月場所・1916年1月場所と全休が3回あるものの、常陸山に対する引分・小常陸に対する休み(当時は相手が休むと自らも休みになる)・2代朝潮に対する預り(軍配は太刀山だが物言いがついた)を挟み、1916年5月場所8日目で栃木山守也に敗れるまで56連勝を記録した。その栃木山戦では、栃木山が上手く立って右ハズで攻めたが、太刀山は左から栃木山の右を抱えて小手に振り、右ハズで強引に割り出そうとした。これをこらえた栃木山は、左も差してもろ差しとなり、太刀山が強引に寄ろうとすると、右すくい投げで太刀山の体を崩し、渾身の力でそのまま寄り切った。 56連勝は引分や預り、休場を挟んだものとしては双葉山定次、谷風梶之助・白鵬翔(同数2位)、梅ヶ谷藤太郎 (初代)に次ぐ史上5位、43連勝は谷風・雷電爲右エ門らと並んで史上9位タイに位置する。またこの二つの連勝の間に西ノ海への1敗しかないため、この西ノ海戦にも勝っていれば丁度100連勝に達していたことになる。この黒星については八百長であったことを本人が述べている。 1917年1月場所の千秋楽、この場所で綱取りを賭けていた大錦卯一郎との全勝対決に敗れ、大錦の横綱昇進が決定的になった。感極まった観客達は総立ちになり、帯や羽織、座布団に加えて灰皿や火鉢、蜜柑も土俵に投げ込まれ、さらに興奮の余り土俵に上って逆立ちをする者や大錦に泣きながら飛び付く者まで現れたと伝わっており、国技館内は観客の騒ぎで前代未聞の大騒動になった。結果的にこの一戦が太刀山の現役最後の取組となり、その後の稽古で右脚を捻挫、また稽古を付けてもらった常陸山の弟子に敗れたことで体力の限界を感じ、1918年1月場所で引退した。
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