横綱にならなかった理由について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 00:02 UTC 版)
「雷電爲右エ門」の記事における「横綱にならなかった理由について」の解説
雷電が横綱免許を受けなかった理由としては次のような諸説があるが、どれも決め手を欠いている。 推薦を辞退したとする説 雷電が推薦を辞退したとされる根拠、資料が存在しない。 共に免許を受けるべき実力的に釣り合う相手がいなかったためとする説 谷風、小野川より後の横綱は単独で免許を受けるケースが続き、同時授与は明治時代後期の常陸山谷右衛門、梅ヶ谷藤太郎 (2代)まで誕生しない。 上覧相撲の機会を得なかったためとする説 そもそも雷電は上覧相撲に出場しており、過去に上覧相撲を横綱免許授与の条件としたことは一度も無い。 雷電の抱え主・雲州松平家と吉田司家の主家・熊本細川家の対抗意識によるものとする説 実証的根拠が存在しない。 容姿に恵まれなかったためとする説 お抱え大名のメンツ保持を目的として美男の者が好まれ、雷電は容姿面で嫌われたと云われるが、錦絵などに遺る雷電の容姿は他の力士と特に大差がない。 現代のように、横綱審議委員会の横綱推薦内規(大関で2場所連続優勝)が定められているという視点からは、雷電ほどの好成績でありながら横綱に昇進していないのは不可解である。しかし新田一郎は、上記の諸説が「横綱という制度がありながら、それにふさわしい雷電がなぜ横綱を免許されなかったのか?」という前提に立っていることを指摘しており、「吉田司家から谷風と小野川が横綱免許を受けた段階では横綱は恒久的制度として成立しておらず、上覧相撲における演出の一つとして一回限りのものとして構想されたために、雷電が横綱を免許されていない」という説を立てている。 実際、吉田司家の横綱免許は谷風・小野川の授与の後、39年もの歳月を経て1828年(文政11年)の阿武松緑之助まで行われていない。この阿武松の免許の前段階として、1823年(文政6年)に相撲の家元を名乗る京都の五条家が谷風・小野川の横綱免許という先例に目をつけ、柏戸利助・玉垣額之助に独自で横綱免許を与えていた。これに負けじと、吉田司家は江戸幕府に対し自らの相撲指揮権について確認することを要求、1827年(文政10年)7月に江戸相撲方取締を拝命、1828年(文政11年)正月に江戸年寄一同が揃って吉田司家門弟となり、2月に吉田司家は阿武松に横綱を免許した。これを機に吉田司家は五条家を牽制し、結果として五条家も吉田司家の免許権を認めた。新田は、こうした経緯で横綱免許は制度化したのであって、横綱制度確立以前の雷電に横綱免許が無いのはむしろ当然であり、雷電は「横綱以前」の強豪力士として位置付けている。 免許権を持っていた吉田司家、さらに1950年以降免許権を譲られた日本相撲協会ともに、今日に至るまで雷電を横綱として追認するなどの措置はないが、1900年(明治33年)に12代横綱・陣幕久五郎が富岡八幡宮境内に建立した横綱力士碑には「無類力士」として顕彰されており、横綱と同列に扱われる場合もある。
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