綱取り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:42 UTC 版)
初の横綱獲りへ挑戦となった2006年7月場所初日に朝赤龍、9日目に雅山に敗れたが、その後順調に勝ち星を積み重ね、千秋楽ではここまで全勝の朝青龍に寄り倒しで土をつけ、4場所連続となる13勝以上の13勝2敗で場所を終えた。 横綱昇進が有力視されたが、日本相撲協会の放駒審判部長(元大関・魁傑)は、朝青龍の独走を許したという理由で、理事会の招集も横綱審議委員会への諮問も行わず、横綱推挙は見送られた。千秋楽後の朝青龍の優勝インタビューの際、NHKのアナウンサーが白鵬の横綱推挙が見送られたことを朝青龍に伝えると、会場は大きなため息に包まれた。番付上、東横綱・朝青龍と東大関・白鵬との対戦が組まれるのは千秋楽であるため、そこまで優勝争いがもつれなかったという意味で「独走を許した」という表現となった(14日目の時点では横綱が14勝0敗で優勝決定、白鵬が12勝2敗)。横綱昇進を見送られた白鵬は、モンゴルの温泉で疲れを取るため帰国した。 翌9月場所で2度目の綱獲りを目指したものの、初日に稀勢の里に敗れ、その際右膝を負傷した。12日目でようやく勝ち越すが、その後千秋楽まで3連敗して8勝7敗に終わり、横綱への挑戦は白紙に戻った。 翌11月場所は、場所直前の11月1日稽古場のある公園内の階段でトレーニング中つまずき、左足親指を怪我、翌日、左母趾基節骨遠位端骨折と診断され福岡市内の病院で手術(ボルトを入れ4針縫う)し入院。9日に抜糸し退院したが、同日11代宮城野が会見を開き、怪我の回復を優先させる事から休場を発表、初の全休となった。次の2007年1月場所は、自身唯一の大関角番であったが、12日目で勝ち越して角番を脱出、10勝5敗と二桁勝利を挙げた。 3月場所前の2007年2月に当時学習院大学に在籍中の学生であった徳島県徳島市出身の和田紗代子と結婚。このとき妻は第1子を身ごもっており、同年5月10日に第1子(長女)が誕生した。義父は実業家で、元朝青龍全国後援会長の和田友良。 3月場所は千秋楽の優勝決定戦で、立合いの変化で朝青龍を下し、13勝2敗で2度目の幕内最高優勝を果たしたが、日本相撲協会や横綱審議委員会ではその相撲内容が十分でないとの意見もあった。それでも3度目の綱獲りだった翌5月場所では、初日から14連勝で14日目で優勝を決め、千秋楽も堂々たる相撲振りで朝青龍に完勝し、自身初の15戦全勝優勝を達成。日本相撲協会からの諮問後の横綱審議委員会でも「満場一致」の横綱推薦となり、念願だった第69代横綱への昇進が決定した。なお横綱土俵入りは熊ヶ谷親方の推薦もあり、熊ヶ谷の入門時の師匠である元横綱・吉葉山と同じ不知火型を選択(白鵬自ら5月場所の全勝優勝インタビューで「部屋の大先輩である横綱吉葉山と同じ不知火型をやります」と宣言していた)。不知火型を選んだ横綱はその多くが短命に終わってきたが、後述の通り白鵬はそのジンクスを払拭する活躍を見せることになる。土俵入りの指導は同立浪一門の4代安治川(当時、元横綱・旭富士)が行った。土俵入りはせり上がりの際、四股を踏む前と最後の締めの部分の腕の所作に大きな特徴があり、前者は翼をピンと張るように切れのいい動作を、後者は翼を広げるようなゆったりとした構えを見せる。
※この「綱取り」の解説は、「白鵬翔」の解説の一部です。
「綱取り」を含む「白鵬翔」の記事については、「白鵬翔」の概要を参照ください。
- 綱取りのページへのリンク