綱勝の死因について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 07:00 UTC 版)
綱勝の死因について、吉良義央による毒殺説がある。これは綱勝の発病が妹の嫁ぎ先の吉良家を訪れた直後で、病状が悪化していることから唱えられた説で、小説や赤穂事件の解説書でも取り上げられることが多い。綱勝の病状については当時の上杉家江戸家老千坂高治の「千坂兵部日記」(「削封日記 天」)に詳しく記されている。 一、閏五月朔日、夜半より御腹中お痛み、(藩医)道是がはっとくえんを御服用させ申候へば、夜明迄七、八度嘔吐成され 一、二日晩から三日晩まで幕府医師内田玄勝が懸命の治療にあたった。 一、四日から腹部が張って苦しみ、玄勝に代わって井上玄哲の治療、山下友仙が召しだされ治療したが、腹が張って苦痛つよし。 一、五日にお嘔吐、小豆の煮汁のようなものをお吐き成され、憔悴ひどし。 一、六日昼、御床の上にて大便通三度通る。六日、夜中より御手足ひえ、御脈にむら出る。 一、二日から六日までおも湯を差し上げた。 一、七日卯の刻(午前六時)往成被成也 ただし、『山形県史』ではその病状から、綱勝の死因は現在の穿孔性胃潰瘍による病死ではないかと推定しており、綱勝は以前から病弱で「会津松平家譜」によると、万治年中にも危篤になったことがあり、このときは井伊直孝らが上杉家後継者として保科正之の子、正純を据える案が正之に打診されたが、正之は断ったとしている。
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