綱吉の将軍就任と吉保
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延宝8年(1680年)、館林藩主の綱吉が兄である4代将軍徳川家綱の将軍後継として江戸城に入ると、綱吉の家臣である吉保も幕臣となる。同年11月3日に吉保は小納戸役に任ぜられる。 天和元年(1681年)4月25日には300石を加増され、830石となる。同年6月3日に吉保は綱吉の学問上の弟子となり、7月11日には江戸・市ヶ谷から愛宕下に居を移す。同年12月20日には生母の了本院を江戸へ引き取っている。 天和2年(1682年)4月21日には従六位下となり、布衣を許されている。天和3年(1683年)1月11日には200石を加増されて1030石となる。同年6月25日には、義兄の信花が江戸城西の丸前において高橋源大夫と喧嘩し、殺害される事件が起きている。 貞享元年(1684年)8月21日には邸を江戸・愛宕下から西の丸邸へ移転する。貞享2年(1685年)12月10日には従五位下・出羽守に叙任している。貞享3年(1686年)1月11日には1000石を加増され、2030石となる。 吉保の生母・了本院の侍女としてつき従っていた飯塚染子は貞享2年(1686年)頃に吉保の側室となり、貞享4年(1687年)9月3日には吉保の嫡男・吉里を生んでいる。同年9月18日には父の安忠が死去する。 元禄元年(1688年)6月10日、西の丸下から一橋内の屋敷に移る。同年11月12日、小納戸上席より将軍親政のために新設された側用人に就任する。禄高も1万2000石とされて大名に昇る。廃城となっていた上総国佐貫城に封じられる。翌元禄2年には一橋内から神田橋内に居を移し、霊岸島にも中屋敷を拝領する。 元禄3年(1690年)3月26日に2万石を加増され、同年12月25日に従四位下に昇叙する。出羽守如元。元禄4年(1691年)2月3日に常盤橋内に屋敷を拝領し、同年3月22日に将軍綱吉が柳沢邸に御成を行う。以来、綱吉は58回に及ぶ吉保邸への御成を行なっている。一方で吉保自身が江戸城に連夜詰め、下城して屋敷で休むようになっても、雷雨の夜には雷嫌いの綱吉を案じて登城するなど忠勤を励んだ(ただし綱吉が発した『生類憐みの令』は綱吉没後ただちに廃止している)。 元禄5年(1692年)11月14日に3万石を加増される。元禄7年(1694年)1月7日に石高7万2000石とされ、武蔵国川越藩(埼玉県川越市)の藩主となる。同年12月9日には老中格と侍従を兼帯する。同11年(1698年)7月21日、大老が任ぜられる左近衛権少将に転任する。出羽守如元。元禄7年(1694年)1月7日に1万石を加増され、川越城を拝領する。同年3月11日に常盤橋内の隣地に屋敷を拝領する。翌元禄8年4月21日に駒込染井村の前田綱紀(加賀藩主)旧邸を拝領し、後にこれが六義園となる。 元禄10年(1697年)7月1日には、綱吉から徳川将軍家の菩提寺である寛永寺(東京都台東区上野桜木)の根本中堂造営の惣奉行を命じられる。寛永寺根本中堂は元禄11年(1698年)8月2日に落成し、吉保は8月9日に日光輪王寺宮の公弁法親王を屋敷へ招き、7月21日には根本中堂造営の功績により左近衛権少将に叙任され、席次も老中の上となった。8月11日には勅使を迎えて根本中堂の上棟式を行っている。 元禄13年(1700年)から翌元禄14年にかけて、吉保は武田信玄の次男・龍芳(海野信親)の子孫とされる武田信興を将軍綱吉に引きあわせ、高家武田家の創設に尽力する。高家武田家は柳沢家から何度か養子を迎えている。 元禄14年(1701年)11月26日に吉里とともに将軍綱吉から松平姓および「吉」の偏諱を与えられ、松平吉保と名乗る。同時に出羽守から美濃守に遷任した。翌元禄15年7月12日、吉保邸が火災に遭い家財を焼失し、吉保自身は家臣薮田重守邸に避難する。翌元禄16年8月26日、幕府奥絵師狩野常信に肖像を描かせ、自賛を記している。
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